不昧因果の境地に学ぶも、なお艱難辛苦が与えられた時、欲得に流されそうになった時、どうすればよいか?

昨日のエントリー「ワールドメイトの支部で、神業を続けていくうえでのターニングポイントについて質問された。」では、お陰が途絶え、業が吹き出した時に、禅の「不昧因果」の境地に学ぶ、というところまで書いた。これには続きがある。


「不昧因果の境地に学ぶも、なお艱難辛苦が与えられた時には、どうすればよいか」

孟子の言葉に、「天の将(まさ)に大任をこの人に降(くだ)さんとするや、必ず先ず其の心志を苦しめ、其の筋骨を労せしめ、其の体膚(たいふ)を餓えしめ、其の身を空乏にし、行うこと其の為さんとする所を払乱(ふつらん)せしむ」というのがある。神様がある人に大きな役目を授けようとするときには、骨肉の苦しみを、窮乏の境遇を、何を行ってもその意図に逆行するような、不如意を試練として与える、という意味である。

明治維新の志士たちは、この言葉を胸に刻み込んで、艱難辛苦に遭ったときには、「天が我に大任を与えているに違いない」と思いながら、試練に打ち勝っていったとされている。

神業を続けていく中で、現世利益が途絶え、何か良くないことが続くようになることもあれば、ようやく業が晴れて開運期に向かったと思ったら、また身辺に良くないことが起こり始めるということもある。それは一つには、まだ業が晴れきっていなかった、ということもあるだろう。しかし、一段上のお役目を与えるためにあえて神様がそうされているという場合もある。そのいずれであるかは、後になってみなければわからない。だったら、神様の試練だ、より大きなお役目を与えようとされているんだと、明るく積極的に立ち向かっていったほうがいい。



「心が初めの志を忘れ、欲得に流されそうになった時には、どうすればよいか」

孟子はまた、「学問の道は他なし、ただ其の放心(ほうしん)を求むるのみ」とも言っている。放心というのは放たれた心。つまり、何かにとらわれた心である。その放心を求める、つまり元に戻すのが学問の道だ、と孟子は言っているのだ。

神様の道を極めようと思って神業を始めたものの、途中で何か別の事柄に心が向いてしまうことはよくある。

とにかく人間というのは、地位か権力か名誉か恋か、何かに心を奪われやすいものだ。その結果、志を見失ってしまうようなら、たとえどんなに本を読んでいても、どんなに知識があっても、それでは本当に学問があるとは言えない。

真の学問がある人は、ただその放心を求める――ひょいと離れていってしまった心を、「ああ、そんなことを考えてはいけない。いまはこれをやらなくてはならないんだ。こんなことを思っていちゃダメだ」と、パッと心を元に戻す。自分の目をあちこちに向けないで、いま、自分がしなければいけないことに邁進していく。

「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」これは王陽明の言葉である。陽明のいう「心中の賊」というのは、人欲のことなのである。人間の持っている欲望というものをどう制するか、「そんなことを思ってはいけない」と己に言って聞かす力。それが本当の学問なのだ。ということを陽明は言っているのである。

そのためには、四書五経をはじめとする、古典の勉強をすることが一番なのだが、私の著書をはじめ、たちばな出版の本には、古典の智恵を現代に適応させた考え方のヒントが、いろいろな形でちりばめられているので、よく勉強していただきたい。


by 2nike | 2015-08-10 16:18 | 神仏のことがわかる本
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