ワールドメイトは教えを勉強するところではない。教えを通して道を勉強するところ。

対機説法とは、相手の能力、性質やその場の状況などに即応して法を説くこと。人により、場所により、状況により、教えは異なるので、それらをつなぎ合わせても矛盾が生じる。形あるものにはすでに本質はなく、形の無いものに本質が宿ると、以前講義で聴いたことがある。

深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」は深遠な内容がわかりやすく書かれている。氏の『中庸』の言葉を引用した講義は何度か聴いたことがある。当初は、なかなか腑に落ちるという感じでの理解はできなかったのだが、この本を読み講義の全体像を把握できた。

ワールドメイトは教えを勉強するところではない。教えを通して道を勉強するのである。『中庸』に次のような言葉がある。
「中(ちゅう)は天下の大本(たいほん)にして、和(か)は天下の達道(たつどう)なり」
「中和(ちゅうか)を致して天地位し、万物を育す」
「喜怒哀楽の未だ発せざる、これを中(ちゅう)と謂う。発して皆節に中(あた)る、これを和という」

「中」を「あたる」と読んでいるところが重要だ。ふだんは道の状態に似て、教えも形もない、人間の喜怒哀楽が出てくる前の道という存在。それがひとたび発すると、ピシッと中心に当たる。激しくするときには激しく、やさしくするときにはやさしく、中は偏りなき道という存在。そして、機に触れて出てきた言葉が教えとなる。

これを理解できないと、矛盾に頭を悩ましてしまうのである。

それぞれ状況が違うのだから、状況に合わせた教えが出てくる。ある人には激しく、ある人にはやさしく、ある人にはもっとおおらかに、ある人にはもっと細やかに。こうも言えばああも言う。それぞれ矛盾している。教えを信奉すれば、必ず矛盾にぶつかる。しかし、そんなことはどうでもいい。道が本質なのである。道の中に、神の息吹があり存在があり、功徳がある。

その法則性とポイントを踏まえれば、相手を生かさんがために、救わんがために、おのずから生きた教えが出せるのである。
皆さま方には、こういう賢人になってほしいと思う。





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by 2nike | 2015-08-17 19:33 | 神仏のことがわかる本
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