面倒くさいという心を克服した後、次に気をつけるのは「狎れ」

何ごとも、過去を学び、先の展開が読めるほどに熟達したいものだが、なかなかおいそれとはいかないものである。ところが、その道の達人に先達をしてもらうことができれば、これほど安心なことはない。深見東州氏はまさにそのような存在であり、面倒くさいという心を克服した後、次に気をつけるのは「狎れ」だと注意喚起してくださる。
深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。


面倒くさいという心を克服すると、その分、神仏との距離も縮まる。それまで遠くにしか感じられなかった神仏の息吹が、身近に感じられるようになる。もちろん功徳も授けられる。

だが、これで安心してはいけない。面倒くさいという心を克服することを、何度か体験すると、すぐまた第二のバリアーに前をふさがれることが多いのだ。そのバリアーとは何かというと、気の緩み。これは信仰を持つ者にとって大きな問題で、私の師匠・植松先生は気の緩みを「なれ」とおっしゃっている。いわゆる「慣れ」ではなく「狎れ」である。

一度うまくいったという体験を持つと誰しも、人に対しても物事に対しても狎れ狎れしくなりがちなのだが、これは面倒くさいという心の次に神仏の嫌われること。狎れが出てきた途端、せっかく縮まった神仏との距離も、再び遠のくのである。そればかりか、狎れが出てくると油断、侮りが生じてくる。その結果、再び怠りが出てきたら、振り出しに戻りかねない。

そうやって怠りが出てきても、普通は上司に叱られたり同僚に注意されたりと、なんらかの形で頭を叩かれるもの。そこで反省すれば、再び神仏の守護が得られるようになるのだが、ときとして頭を叩かれることなく、そのままスイスイと物事がうまく運んでいくことがある。そうなるとどうしても、増長魔、傲慢、不遜、矜(きょう)といったものが出やすくなる。

神仏は「狎れ、油断、侮り、怠り」そして「増長魔、傲慢、不遜、矜」といったものを戒められるわけだが、前者の「狎れ、油断、侮り、怠り」を陰の戒めとすると、後者の「増長魔、傲慢、不遜、矜」は陽の戒めと言うことができる。

この陰と陽、神仏はどちらをより戒められるかというと、陰の「狎れ」や「油断」「怠り」。中でも最も「怠り」を戒められる。神仏の目から見たら、怠りの罪が最も重いのだ。理由は簡単。油断したり怠ってばかりいたら、何一つ魂に記憶が残らないからである。

増長魔や傲慢というのはちょっと方向性がずれているだけで、基本的には大きな誤りではない。ちょっと傲慢になってきたな、慢心が働いているなと思ったら、傲慢にならないようにと心を調節していけばいいのだ。その調節はどのようにやるのかというと、これはもう謙虚の徳を磨くしかない。






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by 2nike | 2015-08-30 19:39 | 神仏のことがわかる本
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