道元禅師の疑問

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「信仰の道」の最初に書かれている「道元禅師の疑問」という節は、若い頃何度も読み返した。そのため、この節を読むと、まだ手探りで神業を学ぼうとしていた頃の懐かしい記憶が蘇ってくる。道元禅師のかかえていた疑問は、当時の私にとってとても興味のあるものだった。そして、今読み返してもあらたな感動に包まれ内容である。
以下は深見東州氏の著作「信仰の道」より。


日本の曹洞宗の開祖として知られる道元禅師は、幼いころから一つの疑問を感じておりました。禅宗はもともと即身成仏の教えですが、それによると、もともと人間は仏様であり、それを発見し体覚するのが本旨である、ということになっています。また、白隠禅師の言葉にも、「衆生本来仏なり」とあります。つまり、もともと衆生は仏様だということです。また、人はもともと聖人だ、という王陽明先生の言葉もあります。

それなのに、なぜ座禅を組み修業をし、即身成仏しなければならないのか。これは変ではないか。道元禅師は、いくら考えても分かりませんでした。そこで、日本中の和尚さんを訪ねて聞いたのです。本来仏である人間が、なぜ、修業をして仏になろうとするのか。しかし、考えても考えても分からず、誰に聞いても分かりませんでした。

困った道元禅師は、比叡山へ行って修業しましたが、そこでも答えは得られず、そこで明全(みょうぜん)という師匠について禅の基礎を学んだのち、中国の天童如浄(てんどうにょじょう)というお師匠様のところで、七年間の修業を重ねたのでした。

そして、はたと悟りました。

そうだ、修業は未知なる仏へ向かっていくものではない。もともと仏である人間が、修業して仏になるものでもない。天の運行の無限なること、果てしなきがごとく、悟りというのはいくらでも深く何重にも層をなしているのだ、ということに気づいたのです。

永遠なものに向かって、完全なものに向かって、ひたすら座っているその姿。その姿というものが仏様なのだ。その人のなかにある仏様の発露なのだ、と悟りました。したがって、何のために座禅を行うのかといえば、健康になるため、悟りを開くため、ましてや仏様になるためではない。座禅そのものが仏の実践なのだ。

そして、「修証一如」という言葉を生んだのです。つまり、修業をするその姿と、仏ということの証は、実は一つなのだ、ということです。進歩発展していく姿そのものが、真実なのです。

この言葉には、実に深い意味があります。つまり、この言葉を私たちの仕事に当てはめて考えてくだされば、分かります。売上はどこまでも伸びていく。会社はいくらでも大きくなる。この姿勢が大切なのです。同時に、人生の悟りも無限に続きます。天地は永遠なのです。その永遠に向かって努力していく姿そのものが、われわれにとっての神なるもの、仏なるものではないでしょうか。





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by 2nike | 2015-09-17 21:29 | 信仰の道
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