有形の宝と無形の宝。孔子のいう「君子は本(もと)を務む」の「本」とは本質であり、無形の宝を指す。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


本文では、仏教について「三法印」だけでなく、「一切皆苦」をつけ加えた「四法印」についても説かれているが、ここではエッセンスだけを取り出してみることにする。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

古来、「有形の宝は空しいだけ。有形の宝を追ってはいけない。無形の実相や天国にこそ真実があるのだ」と教えてきたのが宗教である。

しかし、有形の宝、この世の宝が悪かというと、決してそうではない。有形の宝も必要なのだ。なぜなら、有形の宝と無形の宝の両方を与えて、人間を物心両面に幸福にしようとなさるのが主神の御心だからである。それゆえ、これまでの宗教がいうように、有形のものが空しいというわけでは決してない。

ただし、有形の宝には大きな問題があるのもまた事実。それは、有形の宝ばかりを追求していると、執着心が生まれ、妄念妄想がわいてくることである。それが、霊的にも現実的にも不幸の種となるからである。あまりに財産ばかり追い求めると、ついには物欲のとりこになって、心の中が地獄と化してしまう。これが問題なのだ。だからこそ、古来、多くの宗教が有形の宝に対する欲を捨てるように教えてきたのである。


仏教は、難しく考えればとてつもなく難しくなるが、簡単に考えれば「三法印」に要約できる。つまり、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の三法印である。

二番目の「諸法無我」とは、諸々の形あるものは我がない。つまり実体がないということ。形のあるものは、やがて形を失い、水蒸気のように消えてしまう、という意味である。

無形の何かが有形なものになっていくのを「化する働き」といい、有形のものが無形のものになっていくのを「変ずる」という。この「諸法無我」は「変化」という側面から見れば、「変」について語っているといえよう。
この仏教思想はあまりにも消極的であるといわざるを得ない。

(むろん、真正の釈迦の教えはもっと明るく、積極的である。ただ、インドという社会と風土、中国という社会と風土を経て、日本に伝わるまでの間に、こう色づけされたのである。)

これではいけない、私たちが本来目指すべきは、「変」ではなく「化する働き」のほうである。つまり、無形の宝を積んでいくと、やがて有形の宝となって現れるという側面に視点を置いて、ますます無形の宝を積むことに努めなければならないのだ。

このあたりをとらえて、孔子は次のようにいっている。
「君子は本(もと)を務む」
と。すなわち、立派な人物は枝葉末節の結果などには目もくれず、つねに本になることに一生懸命励んでいる、というわけだ。では、「本」とは何か。「本」とは本質であり、無形の宝である。つまり、立派な人物は、学問や道や徳などの無形の宝を積み重ねることに熱心で、財産や地位、名誉などの枝葉末節には無関心であるが、その人間としての価値を認める周囲の人々によって、有形の宝である地位や名誉も自然に備わる、というのがこの言葉の意味なのである。





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by 2nike | 2015-10-23 21:38 | 大天運
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