無形の宝とは「徳と功候」。徳には「地徳」「人徳」「天徳」があり、善には失敗しやすいパターンが三つある

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


深見東州氏も善を行うのが怖くなった時期があったそうだが、最終的には、惟神(かんながら)の道の救いにより、つまり、不完全を承知で一歩一歩、善行を為す霊的位と咀嚼力が進歩向上していけばよい、という救いにより覚悟を決められた。文中のくだりを読んでいると、「発願」「行動」「絶叫」(神霊を動かす法、「発願」「行動」「絶叫」。ワールドメイトで学んだ不滅の法則。)のプロセスを経て、最後に神様が現れて一厘を授けてくださったのではないだろうかと想像してしまう。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

無形の宝とは、神霊世界に当てはめていえば、「徳と功候(こうこう)」である。徳だけでは無形の宝とはいえない。徳と功候がそろって初めて、無形の宝になるのである。

功候については後述することにして、徳については、ひと言でいえば、「人に益する行いをすること」、これが善であり徳である。目に見える形で益するか、目に見えない形で益するかはともかく、人にプラスになること、人に益することをしてあげることが、徳を積むことになるわけである。もっと厳密にいえば、これは「地徳」といわれるものである。

このほかにも徳には、自己を修養することで得られる霊光である「人徳」、天理と神霊世界の法則を識って太極の主神を動かし、至誠の信仰力にて諸天善神を動かし、才能を磨いて御魂に色彩を加える「天徳」などがある。

さて、ひと口に人に益する行いといっても、一体何が人に益することなのか。結論をいえば、「ひとによかれ」という想いに裏打ちされた口と心と行いが、人に喜ばれ、いい結果になること、すなわち善となり、徳となることなのである。

だが、この善がくせ者なのだ。一般に、善に関して失敗しやすいパターンが三つある。「独善」「偽善」「小善」の三つがそれである。

「独善」とは自分ひとりが善だと思うこと、つまりひとりよがりである。これについては、改めてご説明するまでもないだろう。広い知恵が足りないのである。「論語」にある「思いて学ばざれば、即ち危うし」の危ういとは、この独善の危険を戒めているものにほかならない。

二番目の「偽善」とは、形の上だけ善で、心の中は善ではないということ。目に見えない無形の徳とは、まず無形の心、動機を善にしなければ、本当の善とはならないのだ。それをしないで、形の上ばかりの善、目に見える結果だけが善なのが「偽善」というわけである。本当の善には、無形の真実である愛と誠がこもっていなければならないのだ。

三番目の「小善」は、自分なりに善だと思っても、より大きな目でみたら、むしろ悪になることもある、ということ。つまり、口と心と行いのすべてが善であっても、それだけでは善にならず、大局から見ても善であって初めて、本当の善になるというわけだ。

このように考えると、善を行うのが怖くなってしまう。しかし、私はわかった。そんなことは、神様は先刻ご承知なのだ、ということを。

だから、あまりくよくよ迷う必要はないのだ。神様にもよかれ、人にもよかれという気持ちを満たした上で、至誠を貫けばいいのである。

「世の中に、絶対の善も悪もない。本当の善悪は、万物創造の絶対神にしかわからないのです。科学の発達という視点から見れば、いまわしい戦争だって善となることもあります。しかし、それでも私たち人間は、善行を為さねばならない。では何を基準にするのか。今、当面、人が幸せになり、世の中にプラスになると思ったことを善と信じて、慈悲をベースにしてどんどん為せばよいのです。そして、大局から見て小善だと悟ったら、そのとき、そのとき直していけばいいのです。そこに、人間としての進歩があるのです。もし、このことがよくわかって善行に励むなら、少々善を施したところで、傲慢になったり善行を誇るなんてことにはならないでしょう。かえって、絶対善は主神のみぞ知り、人間の為す善はすべて相対的だというほうが、謙虚であり、精進努力し、進歩向上する励みになっていいんじゃないですか」





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by 2nike | 2015-10-26 20:03 | 大天運
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