ものごとの善悪はどこで判断するのか。何が正しくて、何が誤りなのだろうか。結論は、「中」ならば正。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


四書五経の「中庸」については、
ワールドメイトは教えを勉強するところではない。教えを通して道を勉強するところ。
でも紹介しているので、ご参照ください。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

四書五経の「中庸」には、このように記されている。
「中は喜怒哀楽の発する前にして、ひとたび発して節に中(あた)る」
「中」というのは、右に寄らず左に寄らず、まん中という意味ではない。人間の喜怒哀楽の発する前にあるのだが、ひとたび発して節に中るのが「中」なのだ。具体的にいえば、無形のうちにあって、強いときには強く、弱いときには弱く、どうでもいいときにはどうでもよくしているタイミングや呼吸が「中」であり、ツボにはまった生き方のことなのである。これが正なのだ。

反対に、強く出なければならないときに弱かったり、弱くなければならないときに強く出たり、あるいは頑張らなくてはならないときに怠けてたりするのは正しくない。「正」とは「一で止まる」と書き、一番大切な原点である「中」や先天や太極に止まって事を為す状態のことなのだ。

このように正とは、キリスト教でいう善悪の観念や宗教倫理に合致していることではない。それよりも、中国思想に照らし合わせるならば、すべての行いにおいて「中」にあること、すなわちツボにはまっていることが正なのである。この中正こそが道を行う原点であり、すばらしい極意だといえるものなのだ。

他力と自力を考えた場合、想念術、阿頼耶識などというのは、自力のほうに偏りすぎている。他力の世界を完全に無視してしまっている。神はすべて内在していると思い込んでしまっている。反対に南無阿弥陀仏とかキリスト教、あるいは拝み信仰、お陰信仰というのは、なんでも他力に帰結させてしまう。神様だ、守護霊だ、おキツネ様だ、ご先祖様だと、自分の意識の外のものばかりを見てしまっている。これは他力過剰、甘え過ぎ、依頼心が強すぎるといわざるを得ない。

では、正しいのは何なのかとなると、中正。くり返すが、他力と自力が十字に組んで「中」に止まる。これが正しいのである。他力の中に自力あり、自力の中に他力あり、自力のときは自力、他力のときは他力という具合に活自在になって初めて、神人合一の妙境を行じることができるのである。

このように中正ということの深い意味を理解し、かつ掌握すれば、それはすなわち、正しく神を掌握したことになる。と同時にそれは、神人合一していることになるのである。そして、これらのことが完璧にマスターできるようになるまでのプロセスを神人合一の道と呼ぶわけである。

そうして、そのプロセスがある程度まで進むと、人間か神か、神か人間かわからなくなる。それくらい、すばらしい人間になれるのである。神人合一して初めて、本当の意味での聖人にもなれるのだ。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-11-03 20:20 | 大天運
<< 神人合一のレベルと観音の働き 神人合一の道を極めるには、他力... >>