目前のどんなことにでも没我没入することこそが、挫折・悩みからすみやかに立ち直る最大の近道。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


ここで紹介されている「淮南子(えなんじ)」は、前漢の武帝の頃、淮南王が学者を集めて編纂させた思想書。老荘思想に貫かれている。

咀嚼力を身につけ、強靱な心を自分のものにするには二つの方法がある。ひとつは、とらわれの心を捨てて無心になること。この無心になるテクニックが禅である。もうひとつは目前の身近なことに集中して、頭で考えず体を動かして即実行することである。

このうち、植松愛子先生が説かれたのは、「目前のできることをしたほうがいい。ただ今、ただ今のこの一瞬に生きることをせよ」である。
以下は深見東州氏の著書「絶対運」より。

禍と福とは門を同じくす。利と害とは隣りをなす。(淮南子)

思いあたることがおありだろう。
わざわいも福も同じ門から来るのであって、人がこれを招くのである。もっといえば他人がではなく、自分自身が招いているのである。また、利と思うものは反面に害を招き、害と思うものは他面に利となることが多い。

だから、われわれはものごとを頑固に一面からのみとらえないで、あらゆる角度から理解できるという咀嚼力を身につける必要がある。

この咀嚼力の弱い人は、心のバネも弱く、もろい。当然のことに運気も乏しい。

では、どうしたらしなやかで靱(つよ)い心を自分のものにすることができるのだろうか。挫折や落ち込みから自力でどうしたら脱出でき、勢いを盛りかえすことが出来るのだろうか。

悩みとか落ち込んだ心の状態というのは、一つのことにこだわっているからである。そのこだわりをなくし無心になるテクニックが禅なのだ。

人間、自然に湧いてくる念を消し去って無心になることは、そう簡単にできるものではない。念を消そう、消そうとしても、そう思うこと自体がさらに大きな一つの念であるために、いつまでたっても無心になることは不可能なのだ。

禅では、「念はでるにまかせてそれにこだわらず、一つの真言(マントラ)に軽く注意を向けよ」と指導している。こういった状況を維持しているうちにその真言すらも忘れてしまっていつしか無心(空)の状態になっているというのである。

とはいえ、坐禅を組むことが、最善の方法であるというわけではない。

わが師・植松愛子先生は次のように説く。
「いろいろな念を消し無になることによって、新しいエネルギー、新しい智恵を得られるというならそれはそれで結構・・・・・・でも、無心になるまで一体どれだけ坐禅を組んでいなければならないのだろうか。それよりもいま目前のできることをしたほうがいい。ただ今、ただ今のこの一瞬に生きることをせよ」と。

目前のどんなことにでも没我没入し、その一瞬一瞬に生命を燃焼させることこそが、もてる自力を最大限に発揮でき、他力をも呼びよせ、挫折・悩みからすみやかに立ち直る最大の近道なのである。





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by 2nike | 2015-11-14 22:24 | 絶対運
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