カルマ解消には業を上回る徳を積むこと

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


目標に向かって努力する意欲がわかない、あるいは途中で努力を放棄してしまう、その原因は徳が足りないから」で徳の三つの種類について触れ、「どうしたら徳を積めるのだろうか」という問いかけがあった。その答えにあたるのがこの段となる。
以下は深見東州氏の著書「絶対運」より。

では、積極的因縁解消法とは何か。
それは、業(カルマ)と同じくらいの徳を積極的に積むことである。

不運とは、自分が苦しんで業をあがなうという消極的なものであったが、もう一方で徳分を次から次に積むことで、カルマを早いスピードで解消し、場合によっては、福徳というおつりをいただけるようになる。そうなるとしめたもので、運命の歯車は幸運のほうへ大きく回転しだして、いよいよ加速度がつき、爆発的なしかも本物の強運となる。

徳分は三つの方法で積む。
●体施(たいせ)
●物施(ぶっせ)
●法施(ほっせ)

体施とは、からだを使って労働奉仕をすることである。たとえば上野公園の出入口や駅前の広場を、せっせと掃除をしてきれいにするとか、新宿の公衆便所を毎日毎日、きれいにみがきあげるといったことを、一年間とか二年間とかの期間中、続けて行うことである。

隣りの寝たきり老人の下の世話や食事をつくったりすることを二、三年、無報酬で、しかも人に自慢することなく黙々と続けるのも、体施であり、徳分が確実に積み上げられてゆく。

しかし、仕事をもち家庭もあったりすればそういう気持ちはあっても、実際にはなかなか体施などできないのが現実である。

そんなときは、一番簡単な、物施をやればいい。物施とは、お金や物品で施しをすることである。忙しく身体をつかってできない場合には、自分の収入のなかから、お玉串とかお布施をするのがそれである。

この物施は、体施よりも実行しやすいが、しかし、それほど徳分にならない場合がある。たとえば神さまにお捧げするお玉串を、審神(さにわ)してみるとわかるのだが、「この程度の金を包んでおけばいいだろう」とか「これだけ包むのだからちゃんと功徳も大きいんだろうな」とか、ひどいときには「どうせ金もうけなんだろう、つきあいで恵んでやろうか」といった気持ちがこめられていたりする。気の毒だが、こういう物施はほとんど徳分にならないのである。

そこには神さまへの真心と愛念がひとかけらもこめられていないからだ。

布施ということばに象徴される神仏にたいするあり方を理解できないからだろうが、神仏や相手に恵んでやるという気持ちがあるとき、もはや布施ではなくなる。そうではなくて、捧げさせていただくと考えなければならないのだ。

功徳を積まさせていただくのである。
カルマを解消させていただくのである。
恵んでやるという態度と、徳を積ましていただく姿勢とでは雲泥の差がある。

法施とは、神仏や真理の道を説くことによる施しである。
和顔愛語(わげんあいご)
これも施しのひとつである。いつもなごやかで優しい表情で人を迎え、愛念にみちたことばで他人に接する。接した人は心なごみ、ことばによって勇気づけられる。これであなたはひとりの人をささやかながら救ったことになる。

真の施しの行為の中には、神と人に対する至誠・愛念とともにつねに感謝のこころがこめられているのである。

だから、つねに強運の人は感謝に生き、不運の人は怨嗟に生きている。

運・不運の分かれ道は、日常のそういうところにはっきりとあらわれてくるものだ。





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by 2nike | 2015-12-30 21:29 | 絶対運
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