「祭り」とは「神人合一するための礼」

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


ワールドメイト会員が視聴できるDVD教典に、「祭り」について深見東州氏が解説してくださっているものがある。そのDVD教典は、本書の「祭り」のヵ所をより詳しくお話しされている。重要なテーマなので本書の部分を整理すると、

●神様をお祭りするとき、尊ぶというだけでなく、一歩進んで、「間を均り合わせ」「真均り」となるために祭礼を行うと思い、

●願うときも、感謝するときも、神様と一つになって楽しく盛り上がる。

●こうして、神気につつまれて我を忘れる時、初めて心のとばりを打ち破って、自らの神魂が踊り出るのである。これが「天の岩戸開き」である。

●芸術を真に芸術たらしめているもの。それが、私たちの神魂というものであり、観念や、知性という天の岩戸の中に隠れている、天照大御神様なのである。

以下は深見東州氏の著書「神社で奇跡の開運」より。

神社というのは、どの神様でもある程度はオールマイティーであり、私達の願うことぐらいなら、どんな種類の願い事でもかなえるだけの力は持っている。だが、その強弱や大小、またご専門の職掌により、霊験の冴えが違うのである。そして、どんなに強くて大きなご神霊でではあっても、絶対神ほど完全無欠でオールマイティーな対象はいない。

そもそも神社の神様とは、絶対神のほんの一部を受け持つ顕現神であり、各神様によって発揮される力はまちまちなのである。霊力が非常に強い神様や、それほどでもない智恵の神様などもいる。縁結びが得意な神様もいれば、トラブルを収拾する能力に長じている神様もいる。

だから、どこの神社に何を祈願するかをまず見きわめることが大事なのだ。自分の願い事にふさわしい神社や神様を選んで祈願すれば、願い事がかなう率は高くなり、功徳も迅速に現れる。これが霊験の冴えというものである。

神社参拝に関して知らなければならない重要な事柄がいくつかある。まず、「遠くの親戚より近くの他人」という諺があるが、神社に関しても「遠くの有名神社よりも近くの産土神社」ということがいえるのである。どんなに霊験あらたかな神社でも、側近く常住して私たちを守ってくれる土地神であり、鎮守様である産土神が霊力と功徳の直接効果からいっても、やはり一番頼りになる存在なのである。

産土神社とは、その地域の風土を形成している霊的エネルギーの中心に、私たちが誠を捧げるご神霊のいらっしゃる神床であると思っていただきたい。だから、昔から鎮守様のお祭りは春と秋とにあり、風土の恵みに対する祈りをこめて、春には早苗をそえて、一年の豊作を祈り、そして秋には、稲穂をそなえて、その収穫を無事に与えてくださった天地のみ恵みに、神恩感謝するのである。

祭りとは「間均り」であり、神と人との間を均り合わせて一つにすることである。春のお祭りでは豊作を祈願し、秋のお祭りでは天地のみ恵みに対して報恩感謝の意を表す。願うときも、感謝するときも、神様と一つになって楽しく盛り上がるのである。この神人合一の神楽や踊りのとき、お祭りさわぎとなって真に均り合っているのである。だから祭りは、「間均り」で「真均り」となる。

神様をお祭りするというときも、尊ぶというだけでなく、一歩進んで、「間を均り合わせ」「真均り」となるために祭礼を行う、と思った方が、ご神意にかなっているといえよう。神道の学者の中には、「神に仕えまつる」の意味から「まつる」が来たという人もいるが、霊的に解義すれば、これが本当なのである。神様に対するこの一体感こそが大切なのだ。

これはキリスト教に改宗する前の古代ローマ人達の信仰とまったく同じである。ローマの遺跡に現在でも残っている、パンテオンは、西暦一世紀に建築された建物だが、ローマの人々は、この巨大な石のドームの中で花を供え、食物を供えて飲み、歌い、そして踊った。そうすることが、祖先の霊や神々が喜ばれることであり、その時はいつも共に歌い、歓(えら)ぎ、楽しまれるのだと信じられていたのである。まったく、神道の祭りや直会(なおらい)の思想と基本は同じだといえよう。

だから、「祭り」とは「神人合一するための礼」とお考えいただいた方がよい。拝むだけでは感性に神との距離感があり、楽しく騒ぐだけでは、狎れ合いになって礼を失しかねない。その中庸がいい。節度をもって大楽に徹すれば、神人和合の妙に心を遊ばせ、一体感の中で我を忘れることができる。幸福感の極致といえる。

こうして、神気につつまれて我を忘れる時、初めて心のとばりを打ち破って、自らの神魂が踊り出るのである。これが「天の岩戸開き」である。「古事記」のこの有名な段は、幾通りにも解釈が成り立つが、私達の日常に直結した一番わかり易い実例がこれなのである。
世阿弥の能楽論の中にある「狂いの美」も、このことをいっている。この狂おしいばかりに我を忘れて舞い踊る姿に、世阿弥は美を感じ、花を感じ、神を見いだしたのに違いない。

一人ひとりの感性の奥に秘め持っているもの。歓喜と感動と繊細な感性そのものであって、芸術を真に芸術たらしめているもの。それが、私たちの神魂というものであり、観念や、知性という天の岩戸の中に隠れている、天照大御神様なのである。

一遍上人の踊り念仏や能楽の元となった田楽、猿楽、お神楽の類も、みな「優美と三昧」の境の中こそに神界があり、幸せと楽の極致があることを示している。そして、悠久の昔より神人一体となる私たちに幸福境を演じ、そのことを私たちに教え続けているのである。




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by 2nike | 2016-02-03 17:58 | 神社で奇跡の開運
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