孔子は、教養というものを、「詩に興(おこ)り、礼に立ちて、楽(がく)に成る」と表現した。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


「詩に興り、礼に立ちて、楽に成る」について、深見東州氏の解説を整理しておく。
●他人の書いた詩を理解するということは、自分以外の人の持つ、高貴で豊かな情感を解することができるということだ。それで、これを理解することが教養の始まりとなる。

●人間の誕生を喜ぶ喜び方にも、美しい喜び方があり、結婚を祝う祝い方にも、人間の死を悲しむ悲しみ方にも、それぞれの美しいあり方というものがある。これができて、初めて人としての教養が立つのである。これが「礼に立ちて」という意味である。

●人々という楽器の奏でる個性を尊重しながら、しかも見事な調和がとれていて、社会という一つの音楽を奏でることができるのだ。これができない人は、教養があるとはいえないのである。

以下は深見東州氏の著書「神社で奇跡の開運」より。

どこの神社でもだいたいだが、鳥居があって石畳の参道があり、玉砂利の庭の境内がある。そして、植え込みや木々が繁っていて、お社は木造の清々しい造りとなっている。

また、お神楽があり、灯明があったりして、私たちがおごそかで改まった気分となり、真心を込めて祈りやすいような雰囲気作りをしている。このように神社というのは、私たちがご神霊に対して祈りやすいよう、一体感を持ちやすいようにうまく設計されているのだ。

だから、単なる形式にすぎないではないかと、バカにしてはいけない。結婚式でも式次第があって、仲人が、「新郎は優秀な成績で、新婦は才媛で・・・・・・」と決まりきったあいさつをするが、それが、一生に一度しかない結婚式なのだという改まった気分にしてくれるものだ。

お葬式でも、荘厳なお経が流れて香がたち込め、喪主が涙ながらにあいさつし、霊柩車が焼場に去って行く時、私たちは、「ほんとうに今生の別れなのだなあ」としみじみと思うのである。

こうした形式、セレモニーというのは、その気持ちになるためには欠かせないものだ。

それを孔子は、「詩に興(おこ)り、礼に立ちて、楽(がく)に成る」と表現した。教養というものを、こうして定義したのである。詩とはポエムのこと。人間の高貴な心や感情があふれると、それはポエムになる。思わず詩に書いてみたくなる人間の感情の美しきもの、良きもの、すばらしきものであるはずだ。だから、他人の書いた詩を理解するということは、自分以外の人の持つ、高貴で豊かな情感を解することができるということだ。それで、これを理解することが教養の始まりとなる訳である。

ところで、人間の営みの中で飲むたった一杯のお茶にも、それなりの美しい飲み方がある。

人間の誕生を喜ぶ喜び方にも、また美しい喜び方があり、結婚を祝う祝い方にも、人間の死を悲しむ悲しみ方にも、それぞれの美しいあり方というものがあるのである。

それこそが礼の本来の意味であり、これができて、初めて人としての教養が立つのである。これが「礼に立ちて」という意味である。

そして、最終的には楽で締めくくる。楽とは音楽あり楽しさである。音楽とは打楽器、弦楽器などといろいろな楽器の組み合わせによって、一つの音楽を作り上げるものである。つまり調和の美なのだ。これが「楽に成る」という意味であり、人々という楽器の奏でる個性を尊重しながら、しかも見事な調和がとれていて、社会という一つの音楽を奏でることができるのだ。これができない人は、教養があるとはいえないのである。

神社の祈願も、これとまったく同じだと思えばいい。清々しい祈りを安らかな気分、そして真心あふれる情感(詩に興り)、古式にのっとった参拝(礼に立ちて)、神楽や祝詞に心を合わせて神と調和する(楽に成る)のが正しいお参りといえる。これらの三つの要素を大切に、しかも真剣にするお参りこそが、真に心の教養ある人のお参り作法なのである。




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by 2nike | 2016-02-08 16:22 | 神社で奇跡の開運
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