日本の神様は大らかでユーモアに満ちている - ワールドメイトの備忘録

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


「阿弥(あみ)」という生き方は、室町期の日本型ルネッサンスの中核を担い、日本の伝統芸術をつくり、日本型の美意識を完成させた。日本文化や芸術、生き様を語るうえでは欠かすことのできないものなので、深見東州氏はワールドメイトだけでなくサミットや芸術の講演などで、このことをいろいろな角度からお話しをされる。氏が自らのペンネーム「戸渡阿見」に使っていることからも、とても大事にされていることが分かる。

以下は深見東州氏の著書「神社で奇跡の開運」より。
●日本神話に見る日本の神様のキャラクター

ギリシア神話と日本神話を比べてみたら、いかに日本の神様が大らかであり、ユーモアに満ちているかがおわかりになるだろう。ギリシア神話では、女神様も嫉妬深く、我が強く、私情と私心に満ちている。男神は、すぐにバケ物に変えられるので、緊張した毎日を送っておられる。情け容赦のない制裁と快楽をむさぼるわがままが許される世界である。

是と非をはっきりさせて、善を擁護し悪を徹底的に裁く、中途半端で曖昧なものは認めない。極端な博愛主義か虚無主義か、しからずんば権力と欲望を満たさんがための闘争のいずれかの道をいく、というものである。

一般にはこのほうがわかり易く弘まり易いという長所もあるが、「間」とか「あや」とかの、是非善悪以前の世界の存在がなく、全体として息苦しい文化、はっきりとして精緻ではあるが、虚虚玄玄たる情緒の奥の深まりの乏しい文化となっている。

日本文化には「阿弥(あみ)」という生き方がある。これは、俗人と出家者との中間的な人生を送る人のことをいう。この言葉の由来はこうだ。「南無阿弥陀仏」という言葉があるが、「南無」は帰依するという意味だから俗人を表す。「陀仏」は仏様という意味だから「出家」を表す。そして、その中間に位置するのが「阿弥」というわけである。

この「阿弥」によって、日本の伝統芸術ができあがったといっても過言ではない。能や茶や書や絵画の芸術を通して、禅的な悟りを得たり、自己の人間性や魂を磨き完成させようとする、きわめて宗教的な意義を持つものであった。



●辛抱強くて人が良い日本の神様

日本の芸術には、「華道」「茶道」「書道」、能は「芸道」と表すというふうに、「道」という言葉がつくのが普通である。

武術でも「剣道」「柔道」「弓道」「合気道」というふうに「道」という言葉がつく。ここで言う「道」とは禅でいうところの「見性」(霊覚の悟りを開く)に至るまでのプロセスを経て、芸を通して芸を離れ、道をめざして道を離れ、ついに主一無適の人間としての最高の神性を発揮するまでをめざすという意味である。もっと簡単にいい換えるならば、心を練り、それを鍛え、魂を向上させて天地自然の大道に帰一するまで、本来の自己の霊性を全人格的に高めるという日々を、精一に送るというプロセスのことである。これらは皆、「阿弥」が日々にめざし、歩み来た「道」というものなのであった。

善と悪、是と非は知性や倫理の部分であり、「間」と「呼吸」は、心を静と動や、進や退に調整する「中」の空間である。知性に心の「間」があって初めて、叱るべき時と放任すべき時の調整ができ、善と悪、是と非も、大善のために臨機応変の使いこなしができるのである。これがあって初めて、悪によって善を導き、非によって是を促すという、複雑な行政手腕や自在性が発揮されるのである。観世音菩薩とは、これらの上にいませる仏様なのである。






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by 2nike | 2016-09-16 16:36 | 神社で奇跡の開運
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