カテゴリ:神仏のことがわかる本( 15 )

信仰心の始まりは、一つの事を貫き通す心。その心構えが「恒」。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「道を成就する三要素」の「恒」の中に記されている内容は、「信仰心」。
以下は深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

植松先生は、
「信仰心というのは単に神様を敬うことではないのよ」
とおっしゃっている。

絵を描く人にとっては、絵が神様。音楽家にとっては、美しい音の調べが神様。科学者にとっては、宇宙と真理が神様なのである。すなわち、神様の世界の真・善・美に叶う道を貫くことは、すべて神業なのだ。

美の世界を追求していくのが芸術なら、善を極めるのが宗教である。だから、宗教は神様の信仰の一部だということである。真・善・美のどれかの道に我を忘れて没頭して生涯を貫き通せば、その人には立派な信仰心があると定義されている。

何をやっても長続きしないという人がいる。絵をやっても半年でやめて、書道をやっても三ヶ月でやめてしまった。神社参拝も一年くらいしか続かなかった。

これではとても信仰を持っているとは言えない。信仰心の始まりというのは、一つの事を貫き通す心なのである。生涯にわたって、一つのことを貫き通すのだという精神と姿勢を持ったときに、はじめて信仰心が確立したと言えるのだ。
この一つの道を貫き通す心構えが、「恒」なのである。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-16 17:37 | 神仏のことがわかる本

神霊を動かす法、「発願」「行動」「絶叫」。ワールドメイトで学んだ不滅の法則。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「道を成就する三要素」の「堅」の中に記されている内容だが、神霊を動かすための三ステップ、「発願」「行動」「絶叫」は、個人的には、ワールドメイトで学んだ不滅の法則だと思っている。
三ステップ目の「絶叫」がイメージできなかったのだが、体験してみてわかった。肉体的にも、精神的にも限界まで来て、腹の底からわき起こる激烈な感情、いろいろな感情が入り交じり、そして慟哭。しばしの後、我にかえると不思議な安心感があった。これが絶叫だと思う。
以下は深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

「堅」は堅忍不抜の堅である。あくまで堅い。こうと思ったらどんなことがあっても志を曲げないというのは、いい意味での「我」であると言ってもよい。魂がこうだと思ったときの意志の力。この「堅」がなければ、高い志はもてないし、発願というのも、なよなよとした頼りないものになってしまう。そんなことで、神様の道が成就できるわけはないのだ。

「座禅を組みながらとろんとろんと途中で居眠りをしているような、タヌキ禅をするくらいだったら、ねじり鉢巻きをして徹夜で博打をしろ!」
といったのは白隠禅師だが、これが「堅」なのである。

目を血走らせながら、
「丁!」
「半!」
とやっているときの魂の奮い立ち。
とろとろ居眠りをするような座禅をするくらいなら、こっちのほうがよほど禅の道にかなっているというものだ。

神業というものは、ただ真心をこめて自分なりに怠りなくやればいい、というものではない。必ず悟るんだという発願の強さ、志の強さなのである。
この原則は人生全般に当てはまるものである。

一、神霊を動かす法<ホップ>  :  発願する
例えば、大学受験にしても、
「東大に入れたらいいな」
などというのは、志とは言えない。
「何が何でも、東大に入るんだ!そして立派な人間になって世のために尽くすんだ!」
という強い発願をすることが大切なのである。
すると神様は「ん!」と目を向けてくださる。守護霊たちも、
「おいおい、本気かよ」
と騒ぎ出す。
とにかく、いやでもご神霊がこちらに目を向けるような強烈な発願をすることである。
ただし、この時点ではご神霊はただ見守って成り行きを見ているだけである。

二、神霊を動かす法<ステップ> : 行動する
こうと決めたら、次に、それに向けて即行動を起こすことである。目標に向かって一心不乱に努力することだ。初めは、合理的な勉強の仕方がよくわからないかもしれない。しかし、神様にやると言った以上は、「これはご神業である」と肝に銘じて、ひたすら頑張り続けるのだ。

こうなってくると守護霊たちも、身を乗り出して注目してくる。神様も今まであまり予定になかったスケジュールを、準備せざるを得なくなってくる。

三、神霊を動かす法<ジャンプ> : 絶叫する
そして、さらに努力を続け、もはや限界だというところまでくる。肉体も脳も限界に達して、もう死にそうだ、どうなるかわからない、という状態まで達した時に、魂はついに絶叫する。
「わおー!」
この時、ご神霊がどっと動いてくださるのだ。
守護霊団が全面バックアップの体制を整え、力強くパワーを与えてくれ、それでも足りない分は、前世にご縁のあった寺子屋の先生とかを指導霊につけてくださる。神様もお参りしたことのある天神様とかに応援してやるよう言いつけてくれる。こうして、三昧の境地に至り、受験勉強そのものが喜びとなってしまうのである。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-15 22:21 | 神仏のことがわかる本

道を成就する三要素「堅」「誠」「恒」。ワールドメイトに入会してすぐに、そして度々学ぶもの

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「道を成就する三要素」の神業教典はワールドメイトに入会してすぐに見ることのできるビデオ教典だったと思う。また神事会場でも度々上映されるので、非常に基本的で、重要な内容だと認識している。
以下は深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

神業は十年、二十年と続いていくものなのである。一生かけて歩む道であるから、調子のよいときも悪いときもある。三昧の境地に達したからといって、その状態を一生保ち続けられるかといったら、また緩むときもあるのだ。

多少の無理をしなければ伸びないので、無理はするけれども、無理をしすぎてぷっつんと切れてしまったら、元も子もない。そのためには色々な智恵を取り入れながら、あせらずたゆまず、とにかく歩み続けること。そのために大切なのは、道を成就する三つのポイント「堅」「誠」「恒」である。

「堅」とは、こうと思ったらどんなことがあってもやりとげるのだという心。例えば、寒中マラソンをやるのだと決めたら、どんなことがあってもやる。コタツと練乳の誘惑をはね除け、勇気を奮ってマイナス十五度の寒中に飛び出していくのが「堅」である。

「誠」は省みる心。自分の修業の中で何が足りないかを謙虚に反省して、真心をもって、口と心と行動を一致させていくこと。言ったことが成るから「誠」である。誠が通じない神霊はいない。これは神様を動かす極意でもあるのだ。

そして、恒久平和の「恒」。曇っていても雨降りでもお天道様はその上でちゃんと照らしていらっしゃる。太陽は週休二日制でもなければ、隔週土曜休みでもない。毎日怠ることなく、間なく断なく照らしつづけているのである。そういう心、これが「恒」である。




ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-14 22:13 | 神仏のことがわかる本

ワールドメイトで学んだ「三昧の境地」とは

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「三昧(ざんまい)」は、wikiでは「仏教における禅定(ぜんじょう)、ヒンドゥー教における瞑想において、精神集中が深まりきった状態のこと。」と書かれている。意味としてはそうなのだろうが、感覚としてはわかりにくい。そこで、ワールドメイトで学んだ、「三昧の境地」について、以下は深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

人間の苦しみというのは、弛緩から緊張に移る、まさにターニングポイントのところにある。リラックスした状態から緊張に向かう時が、一番苦しいのだ。

しかし、意を決して緊張の中に飛び込み、苦の中に没頭していくと、苦を苦として感じなくなってくるのである。それは、コタツの中にいる時より、マイナス十五度の中を裸で走っているほうが苦しい。ところが、しばらくたって体が慣れてくると、走っていることが楽しくなってくるのだ。苦中に楽あり。これが御魂の力なのである。

御魂の充実感で、苦しみが苦しみでなくなっているような状態を、「三昧の境地」という。これは、苦楽を越えた世界にいるということだ。

これこそ精進努力の権化、神人一体となった妙境である。あるいは、動中の静と言ってもいいだろう。

客観的に見れば厳しい艱難辛苦の状況において、いつもへらへら笑っているように明るく楽しく生きるのが、三昧の境地。ここまでくると明らかに、
「我に七難八苦を与えたまえ」
という山中鹿之助のレベルを越えているわけである。

苦しいことを苦しそうに頑張っているというのは、苦に負けているのだ。まだ、苦しみがあるという相対の世界に甘んじているということである。






ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-13 17:29 | 神仏のことがわかる本

その人の足跡を見たら御魂の良し悪しがわかる。ワールドメイトに入会してすぐに学ぶ「誠の五段活用」。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「誠の五段活用」とは、ワールドメイト会員にとっては、入会してすぐに学ぶ基本的な教えである。「基礎こそ到達点。基礎を反復することが到達点である」と深見東州氏がおっしゃっているように、「誠の五段活用」を反復して実践するとどうなるか、以下は深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

「誠の五段活用」を死ぬまで実践できたら、上魂の御魂として神霊界に登録され、死んでから上魂の世界に行く。要は実践なのだ。どうのこうのと理屈をこねくりまわしたところで、実行できなければ上魂ではない。実行できた人が上魂なのだ。

私の師匠である植松先生も、御魂の良し悪しというものをどこで判断なさるかというと、その人が今日までおくってきた人生の足跡。すなわち実践してきた内容をご覧になって、御魂の良し悪しを判断されるのである。

その人の口から出てくる言葉を聞いただけでは、御魂の良し悪しはなかなかわからない。誰しも口ではいろいろなことを言うし、麗しくも美しい言葉を吐くし、ときには神と見まごうほど立派なことを語る。そのときは当人も、心からそう思っているのかもしれないけれど、言葉だけでは絶対にわからない、ところが、その人が今日までおくってきた足跡を見たら、御魂の良し悪しが一目瞭然。一切のごまかしが通用しなくなる。

挫折をバネにしてバーンと乗り越えてたか、挫折のままで終ってしまったのか、あるいは後ろ足で砂をかけるようなことをしてきたか、はたまた、人を蹴落とすようなことをしてきたか、すべてが魂の中に焼き付けられて残っているからである。

その人の足跡を見て、何かをやり遂げた体験、やりおおせた体験、貫いた体験を持っている人は、荒魂のしっかりした人。とりわけ、いつも誠でやり貫いてきたという痕跡を残した人は、素晴らしい御魂と判断していい。反対に、いまどんなに純粋そうに見えても、理想を追い求めていようとも、足跡がいい加減だったら、その足跡だけの御魂ということになる。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-04 22:33 | 神仏のことがわかる本

神道では、罪を天津罪と国津罪の二種類に分けているが、そのどちらがより重いか?

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



今日の産経新聞、The Japan Timesに、 第4回東京国際コンサートの記事が掲載された。後援が文化庁、スペイン大使館、毎日新聞社、産経新聞社、ジャパンタイムズだったので、スポーツ紙だけでなく、全国紙、英字新聞にも記事が掲載され、華やかなものだ。

さて前回、深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」からの続きになる。
「増長魔、傲慢、不遜、矜」を調節するには謙虚の徳を磨くしかない、というところまで書いた。
なお、「増長魔、傲慢、不遜、矜(きょう)」のうち、「矜」とは、内的な無形の世界にかすかに出る心おごりであって、態度や言動に明確に表れる、外的な傲慢とは区別される、と説明を付け加えておく。

例えば、宋学の周濂渓(しゅうれんけい)先生の下にいた程明道(ていめいどう)、程伊川(ていいせん)の両先生は一年間、「謙」というものばかりを研究していたらしい。それまでなかなか修道が極まらなかったのが、その一年間、「謙」の一字の修養をやって見違えるように変わった、という話が『近思録』に出ているが、、程明道、程伊川先生を見習って、「あっ、増長しているな」と思ったら謙を心がけたらいい。

増長魔、傲慢は褒められたことではない。だが、反省すれば、それまで積み上げてきた実績、悟りといったものが一八〇度転換されて、世のため人のために役立てられるのだ。褒められたことではないけれど、それほど悲観するものでもない。

ご存じの向きも多いだろうが、神道では、罪を天津罪と国津罪の二種類に分けている。国津罪というのは、殴る、蹴る、盗むといった、人々に迷惑をかける罪。これに対して、人に直接迷惑はかけないものの、己の才能、徳分を磨かないこと、すなわち怠りの罪を、天津罪と言う。

その国津罪と天津罪、どちらがより重いかと問われたら、皆さんはどう答えるだろうか。おそらく、国津罪のほうが重いと答える人が多いのではないかと思う。そう考えるのも当然かもしれないが、実は、神霊世界から見ると天津罪のほうがはるかに重い。怠りの罪は前述したように、反省しても何も残らないからだ。無論、どちらも良くないことなのだが、反省すればそれまで積み上げてきた実力、実績を世のため人のために役立てられる陽の罪、すなわち増長魔や尊大、傲慢の方がよりベターなのだ。






ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-03 22:28 | 神仏のことがわかる本

面倒くさいという心を克服した後、次に気をつけるのは「狎れ」

何ごとも、過去を学び、先の展開が読めるほどに熟達したいものだが、なかなかおいそれとはいかないものである。ところが、その道の達人に先達をしてもらうことができれば、これほど安心なことはない。深見東州氏はまさにそのような存在であり、面倒くさいという心を克服した後、次に気をつけるのは「狎れ」だと注意喚起してくださる。
深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。


面倒くさいという心を克服すると、その分、神仏との距離も縮まる。それまで遠くにしか感じられなかった神仏の息吹が、身近に感じられるようになる。もちろん功徳も授けられる。

だが、これで安心してはいけない。面倒くさいという心を克服することを、何度か体験すると、すぐまた第二のバリアーに前をふさがれることが多いのだ。そのバリアーとは何かというと、気の緩み。これは信仰を持つ者にとって大きな問題で、私の師匠・植松先生は気の緩みを「なれ」とおっしゃっている。いわゆる「慣れ」ではなく「狎れ」である。

一度うまくいったという体験を持つと誰しも、人に対しても物事に対しても狎れ狎れしくなりがちなのだが、これは面倒くさいという心の次に神仏の嫌われること。狎れが出てきた途端、せっかく縮まった神仏との距離も、再び遠のくのである。そればかりか、狎れが出てくると油断、侮りが生じてくる。その結果、再び怠りが出てきたら、振り出しに戻りかねない。

そうやって怠りが出てきても、普通は上司に叱られたり同僚に注意されたりと、なんらかの形で頭を叩かれるもの。そこで反省すれば、再び神仏の守護が得られるようになるのだが、ときとして頭を叩かれることなく、そのままスイスイと物事がうまく運んでいくことがある。そうなるとどうしても、増長魔、傲慢、不遜、矜(きょう)といったものが出やすくなる。

神仏は「狎れ、油断、侮り、怠り」そして「増長魔、傲慢、不遜、矜」といったものを戒められるわけだが、前者の「狎れ、油断、侮り、怠り」を陰の戒めとすると、後者の「増長魔、傲慢、不遜、矜」は陽の戒めと言うことができる。

この陰と陽、神仏はどちらをより戒められるかというと、陰の「狎れ」や「油断」「怠り」。中でも最も「怠り」を戒められる。神仏の目から見たら、怠りの罪が最も重いのだ。理由は簡単。油断したり怠ってばかりいたら、何一つ魂に記憶が残らないからである。

増長魔や傲慢というのはちょっと方向性がずれているだけで、基本的には大きな誤りではない。ちょっと傲慢になってきたな、慢心が働いているなと思ったら、傲慢にならないようにと心を調節していけばいいのだ。その調節はどのようにやるのかというと、これはもう謙虚の徳を磨くしかない。






ご来訪いただきありがとうございます。
ブログ村のランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ
by 2nike | 2015-08-30 19:39 | 神仏のことがわかる本

面倒くさいという心が神仏を遠ざける

人はなぜ怠けるのだろうか。
仕事、勉強、連絡など、すべきことをしない、おこたる、なまける、さぼる。そういう怠けグセがびっしり身についている人は少なからずいる。そういう怠けグセと神仏の関わりについて、深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

怠ける理由も何もあるものか、怠け者は生まれつき怠け者と決まっているんだ、そんな声が聞こえてきそうだが、怠けグセが生まれつきかどうかは別として、何かにつけてすぐにサボる人には共通の心理がある。それはすなわち、面倒くさいという思い。これが怠けという行動を引き起こすのだ。

営業に出なければいけないんだけれど、雨が降っているから外に出るのが面倒くさい。礼状を書かなければいけないんだけれど、文面を考えるのが面倒くさい。電話をかけて謝らなければいけないんだけれど、面倒くさくて電話一本かける気がしない。この面倒くさいという思いがあるかぎり、どんなに祈っても神仏の加護はまず受けられない。

例えば、あなたの部下に、命令や指示を出すとすぐにふて腐れた顔をする人間、面倒くさそうな態度をとる人間がいたとしよう。その場合、そんな性格の屈折した部下でも出世ができるように、待遇が良くなるようにと、なにくれとなく引き立ててやろうという気持ちになるだろうか。まれには、そういう面倒見のいい上司もいるだろう。だが、そんなに仕事が嫌いならサッサと辞めたらどうなんだ、という気持ちになるのが、人情というものではないだろうか。

神仏もそれとまったく同じなのである。もちろん、怠け者、無精者だからといって、慈悲深い神仏が、蹴落としたり、不幸に陥れたりすることはない。かといって積極的に守護されることもない。一刻も早く本人が自分の欠点に気づいて自ら立ち直ることを願いながら、黙って見守られるだけなのだ。

だから、神仏を身近に感じるようになるには、何はともあれ面倒くさいという心を払拭すること。ここをクリアーしないかぎり、神仏の守護も得られなければ、功徳もいただけない。そう断言していい。






ご来訪いただきありがとうございます。
ブログ村のランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
by 2nike | 2015-08-29 19:56 | 神仏のことがわかる本

神人合一の道

神人合一の道とは何ぞや?
深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

神人合一というと、瞑想をしたり、滝に打たれたりして、霊能力を開いていくというイメージを持たれるかもしれないが、ワールドメイトではこのような修業を一切行っていない。あくまでも生活に根ざした修業を基本に据えているということをおことわりしておきたい。

「神人合一は生活に応用できなければ意味がない」というのが、植松先生の教えである。例えば、神人合一している人とはどのような人か。芸術の世界では、ミケランジェロやダ・ヴィンチのような万能の天才。宗教家では聖徳太子や弘法大師。超能力の世界では、モーゼが一番で、出口王仁三郎が二番だと神様はおっしゃっている。

説法ではお釈迦様が抜群で、妙と玄の体得では老子。現実界を踏まえた人の道のお手本では孔子。生き死にを乗り越えた宗教的情熱を持った清らかな生き方としてはマホメットがあげられるだろう。

このように歴史上に名を残している人物は、単に素晴らしかったというレベルではない。人間の能力の限界を越え、神なるものと一体になったからこそ、それぞれの分野であれだけの偉業を成し遂げられたのである。彼らは皆、神人合一の先達である。

しかし、逆に言えばすべて肉体を持つ人間がやったことなのである。ということは、私たちも努力次第で、彼らのレベルに近づくことができるのである。

昔は情報も少なかったし、学問も行き渡っていなかったので、彼らがどのようにして、そうしたレベルに達したのか知ることは難しかった。しかし、今は情報が発達しており、さまざまな分野で学問の蓄積もできている。

誰も登ったことのない山に初めて登るのは難しいが、誰かが登ってルートを開発した後は、比較的簡単に登ることができる。

私たちの大先輩が越えてきた山であるからこそ、二度目三度目の私たちは、その気になりさえすれば越えられないはずはない。しかも簡単明瞭にポイントを押さえて、どのようにすれば大先輩のいいところを全部集めたような神人になれるのかということが出されているのが、ワールドメイトに降ろされた「神人合一の道」なのである。

だから、講義であろうが、神事であろうが、祈祷会であろうが、すべて実在の神を掌握し、その神を行じていくことなのである。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログ村のランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
by 2nike | 2015-08-25 20:11 | 神仏のことがわかる本

ワールドメイトでは宇宙創造神を心に置いているために、宗教を超えて、自由自在にいいものを吸収できる。

ワールドメイト会員を永くやっていると、習慣になっていることなので特に考えることもなかったが、「宇宙創造神を心に置く」ということの意義や「神霊界の実体」をあらためて活字で読むと、とても新鮮な気持ちになる。深見東州氏の著作「神仏のことがわかる本」より。

「宇宙創造神を心に置く」


私が言う神とは、キリスト教的な神ではなく、仏教的な仏様の悟りというものでもない。絶対の宇宙のス神。姿なく形なく、始めなく終りなく、無限絶対・無始無終。この神様を心の中心に置いて神人合一の道を学んでいくのである。

絶対神を道の中心に置いているがゆえに、儒教でも、キリスト教でも、仏教でもなんでも勉強できる。非常に便利である。仏教系の団体では、神道やキリスト教を学べるものではない。キリスト教系では神道や仏教を学びにくい。ところが、ワールドメイトではスの神を中心に置いているために、宗教を超えて、自由自在にいいものを吸収できるのだ。



「ス神と神霊界の実体」

それでは、スの大神様と神々の世界はどのような関係で成り立っているのであろうか。無限絶対・無始無終であられる宇宙のス神は、姿、形はない。しかし、働きの次元になってきたら、姿、形、色、光がある。それら、働きの次元の神々が、産土神であり、仏様なのである。

有限なる人間が無限絶対の神様を理解するのは不可能である。そのため神様は人間にわかりやすいように、法則性とか理(ことわり)というものを極めて仏教教理を出し、仏様としての姿で出られるのである。つまり、仏様は神様の一部なのである。仏様ばかりではない、地獄の鬼、あれらすべて、スの神直系の正神界の神々が姿を変えてやっているのである。

神霊界は、親神なるス神を頂点に、一糸乱れぬピラミッド型になっていて、下の神々はみな、スの大神様に対する大御心と天の理に基づく生きざまに徹底しておられる。そのご褒美として、スの大神様から愛をいただく。ゆえに地獄の鬼も感謝し喜びながらやっている。決して恨みの心で地獄囚をいじめているのではなく、少しでも早く改心するよう、まさに心を鬼にして励んでおられるのである。

鬼たちばかりではない。守護霊、守護神、仏様、産土神。皆、スの大神様に対する奉仕の心で、人類のために働いてくださっているのだ。その褒美として、スの大神様の愛の霊流を受けて歓喜をいただく。これが神霊界の実像である。

もう、お気づきだろう。そのとおり。スの大神様に対する姿勢という点からすれば、われわれ人間も神仏と同じ立場なのである。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログ村のランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
by 2nike | 2015-08-22 20:58 | 神仏のことがわかる本