カテゴリ:信仰の道( 5 )

「易経」は、天の時にあった君子の徳行を実践するための教本

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



深見東州氏は、運命を改革する手段として、陰騭録をベースとした「徳を積む」ことを語られている。ここでは、「易経」の素晴らしさと、「易経」に示されている天徳と天佑を備えていればどんな不幸も越えられるということが語られる。
以下は深見東州氏の著作「信仰の道」より。

隋の時代から清まで続いた科挙(官吏登用試験)で、四書五経のなかでは、この「易経」が最高とされ、最終関門の口頭試験で試されるのです。もっとも、一般に、宋の時代までは「易経」が最重視され、宗以後は「中庸」が、四書五経のなかでは最重視されています。

そして、天の命、天の機を知って人道と政治を行う智と徳があるかどうかを調べるのです。政治、まつりごとは、天の命、天の道を世に行ずること、取り次ぐことです。いくらいい行いをしようと思っても、天の時と理に合わなければ、世の中は混乱するのです。そして、君子たるもの、こういうときはいかなる態度で臨むべきなのか、「易経」は、天の時にあった君子の徳行を実践するための教本でありました。

こういうわけで、易が科挙の最終関門として採用されています。これは隋の時代から続いてきたことです。

しかし、本来の易の精神から外れた昨今の「易占」は、盲信することはありません。易経が示すように、どんな不幸も、それを盛り返すだけの天徳と天佑が備われば、必ずや立派に越えられるものだからです。これは、あらゆる宗門、宗派を越えて、学ばなければならない真理であり、天の法則であると申せましょう。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-22 17:58 | 信仰の道

陰騭録における「徳」「善根」「積善」。儒教の代表的な徳の思想と、仏教の代表的な因果律の思想について

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



まだ、一昨日の深見東州氏の武道館コンサートでの心の昂ぶりが冷めやらぬところだが、ルパン三世のテーマのCDを聴きながら、以下は氏の著作「信仰の道」より。

陰騭録における「徳」とは、「善根を積む」とは、どのような意味なのか。陰騭録によれば、ただ一言、「人に益することを行う」ことです。

しかし、一つ注意してください。人に益するといっても、発するところが善なる心、慈愛でなければ、表面上は善行でも、死ねば地獄行きです。つまり、偽善者となるからです。
また、短期的には益することが、長期的に見れば益しない場合があります。そして、その逆ももちろんありますが、要は、本来の意味における生きた善を施す必要があるのです。大慈悲で、観音様のように、施すべきは施し、戒めるべきは戒めるのが、真の善根といえるでしょう。

さらに、仏説における徳行は、大きく三つに分けられています。体施、物施、法施がそれです。

さらに私がつけ加えれば、霊的空間に無形の善を施す言霊施(ことだませ)があります。よい言霊を人や物や空間にどんどん施せば、あとで必ずいいことが起こり、人々の幸せにつながるのです。また、よい念を人々や事物に施す念施もあります。霊空間に善の基を形成することができるからです。

さて、その体施、物施、法施の子孫への影響について、もう少し詳しくお話しいたしましょう。おそらく、雲谷(うんかい)禅師が袁了凡にいったのだと思われますが、「易経」になかに有名な言葉があります。簡単にいいますと、”親の因果が子に報い”ということですが、「易経」では「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃(よおう)あり」といいます。「善を積み重ねてきた家には、あり余る喜びがあります。逆に、善ならざるものを積み重ねてきた家には、よくないことがふりかかる」という意味です。

「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず余殃あり」は、驚嘆すべき真理の言葉であります。「家の因縁」といいまして、生まれながらに運のいい人、生まれながらに不幸な人は、家の因縁を受けているのです。
因縁にも良い因縁と悪い因縁があり、前世に徳を積んでいる人は、相応に余慶ある良い因縁の家に生まれてくるのです。逆に、前世に悪行を積んでいる人は、相応に余殃ある悪い因縁の家に生まれてくる。これを「相応の理」といい、悪い家の因縁を背負ってしまっても、運命を呪い、親をうらむことはないわけです。

このように、儒教の代表的な徳の思想と、仏教の代表的な因果律の思想は、誠にうまく呼応して、真をうかがっていると申せましょう。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-21 21:17 | 信仰の道

袁了凡(えんのりょうぼん)の教訓に満ちた人生 - 陰騭録(いんしつろく)講話

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



運命を改革する手段には、3つある。
「易」、「徳を積む」、「神霊世界との交流」。
1つめの「易」は、姓名を判断して名前を変える。印鑑を変える。また、家相を見てもらう。方角を見てもらう。吉方向に向かって引っ越しや旅行をする、ということ。
3つめの「神霊世界との交流」は、神霊世界の交流と加護を受けて、運命を好転させ、幸福を得る、という方法だが、深見東州氏やワールドメイトのメインテーマであり、語りすぎるほど語っても語り尽くせないテーマということのため詳細は書かれていない。
そこで、2つめの「徳を積む」について抜粋しようと思う。その前に、『陰騭録』(いんしつろく)をwikiで調べた。

(wikiより)
『陰騭録』(いんしつろく)とは、明代、呉江の人で、嘉靖年間から万暦年間を生き、74歳で亡くなった袁了凡(えん りょうぼん)が自己の宿命観を乗り越えて、自分から運命を創造してゆくことを悟った体験を書き記した書物である。

著者・袁了凡は代々学者の家に生まれ、幼名を「学海」といい、将来医の道に進もうと考えていた。あるとき孔という不思議な老人が家を訪れ、学海少年の将来の職業や寿命などを予言する。そして予言のとおり科挙を志す。その後身の上に起こったことがことごとく孔老人の言うとおりになっていったので、学海は徹底した宿命論者となっていた。

役人になった後に、棲霞山中に以前から教えを請いたいと思っていた雲谷禅師を訪ねる。雲谷禅師にこれまで人生の話をすると、孔老人の宿命論のままに生きようとする学海の姿勢を大馬鹿者と叱咤し、人は自らの力で立命できると語る。彼は禅師の話に強く感動し、その教えに従い、徳性を充広し、善事を力行し、多くの陰徳を積んだ。すると孔老人の予言は段々と当たらなくなっていった。寿命は53歳で死ぬと言われていたが74歳まで生き、子に恵まれないと予言されていたが一子天啓をもうけることができた。学海は「了凡」と名を改め、大きくなった息子に自分の人生を語り聞かす。



以下は深見東州氏の著作「信仰の道」より。

袁了凡は、まさに徳を積むことによって運命を改善し、造命することができたわけです。徳を積むことで天の命数が改善されたのです。これは実話です。小説でもフィクションでもありません。

以徳報徳の二宮尊徳も、常に陰騭録を携帯していたそうです。
こうした徳の話しは、江戸時代からあるようです。石田梅岩の心学などにも、そうしたものが見られます。
尊徳翁も著述には仏説の「徳」概念の方が多いようですが、確かにこれを学び、ひたすら徳を積むことによって運命を改革し、幸せになろうと努力されました。陰騭録は、日本の道徳にも大きな影響を与えているのです。






ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-19 15:35 | 信仰の道

運命改革方法論序説 --- 天命・宿命・運命について

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



天命とは、「人間は幸せになる義務がある」ということ。
宿命とは、変えることのできないもの。
運命とは、改革できるもの。
以下は深見東州氏の著作「信仰の道」より。

植松愛子先生はスの神様に、「人間は幸せになる義務がある。それがス神の心であり、人の天命である」と示された。

天の命をわが身に宿す、これが宿命です。たとえば、長男に生まれた、日本国民に生まれた、これはどうしようもありません。日本人に生まれた人が、生まれながらのアメリカ人になりたいといっても、無理な相談ですね。

このように、人間には生まれながらの宿命があり、制約があるわけです。すべてが自由になるわけではない。そうした制約はあるけれども、しかし、この命をうまく運んでいくことによって、運命を好転させ、幸福を大きくすることはできる。これを、王陽明先生は、造命、つまり命をつくっていくことだと教えます。

これに対し、あとで述べる陰騭録(いんしつろく)というのは、陰徳を積んで造命することで立命するのです。命を立てることです。

さて、ここで大切なことは、私たちが命を運んでいくことを天が望んでいることであり、私たちはまさに命を運んでいくことができる、ということです。

運命は改革できるのです。宿命は変わりません。が、天の命を知って宿命を悟り、動かしがたい自分の局面を見て、そこからいかに運命を運び、幸福になるのか。問題はそこにあります。この方法を、現在の次元のなかで三つに分けて考えてみましょう。




ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-18 22:32 | 信仰の道

道元禅師の疑問

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>



「信仰の道」の最初に書かれている「道元禅師の疑問」という節は、若い頃何度も読み返した。そのため、この節を読むと、まだ手探りで神業を学ぼうとしていた頃の懐かしい記憶が蘇ってくる。道元禅師のかかえていた疑問は、当時の私にとってとても興味のあるものだった。そして、今読み返してもあらたな感動に包まれ内容である。
以下は深見東州氏の著作「信仰の道」より。


日本の曹洞宗の開祖として知られる道元禅師は、幼いころから一つの疑問を感じておりました。禅宗はもともと即身成仏の教えですが、それによると、もともと人間は仏様であり、それを発見し体覚するのが本旨である、ということになっています。また、白隠禅師の言葉にも、「衆生本来仏なり」とあります。つまり、もともと衆生は仏様だということです。また、人はもともと聖人だ、という王陽明先生の言葉もあります。

それなのに、なぜ座禅を組み修業をし、即身成仏しなければならないのか。これは変ではないか。道元禅師は、いくら考えても分かりませんでした。そこで、日本中の和尚さんを訪ねて聞いたのです。本来仏である人間が、なぜ、修業をして仏になろうとするのか。しかし、考えても考えても分からず、誰に聞いても分かりませんでした。

困った道元禅師は、比叡山へ行って修業しましたが、そこでも答えは得られず、そこで明全(みょうぜん)という師匠について禅の基礎を学んだのち、中国の天童如浄(てんどうにょじょう)というお師匠様のところで、七年間の修業を重ねたのでした。

そして、はたと悟りました。

そうだ、修業は未知なる仏へ向かっていくものではない。もともと仏である人間が、修業して仏になるものでもない。天の運行の無限なること、果てしなきがごとく、悟りというのはいくらでも深く何重にも層をなしているのだ、ということに気づいたのです。

永遠なものに向かって、完全なものに向かって、ひたすら座っているその姿。その姿というものが仏様なのだ。その人のなかにある仏様の発露なのだ、と悟りました。したがって、何のために座禅を行うのかといえば、健康になるため、悟りを開くため、ましてや仏様になるためではない。座禅そのものが仏の実践なのだ。

そして、「修証一如」という言葉を生んだのです。つまり、修業をするその姿と、仏ということの証は、実は一つなのだ、ということです。進歩発展していく姿そのものが、真実なのです。

この言葉には、実に深い意味があります。つまり、この言葉を私たちの仕事に当てはめて考えてくだされば、分かります。売上はどこまでも伸びていく。会社はいくらでも大きくなる。この姿勢が大切なのです。同時に、人生の悟りも無限に続きます。天地は永遠なのです。その永遠に向かって努力していく姿そのものが、われわれにとっての神なるもの、仏なるものではないでしょうか。





ご来訪いただきありがとうございます。
ブログのランキングボタンをクリックしていただくと嬉しいです。
     ↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ ワールドメイトへ
ワールドメイトへ

by 2nike | 2015-09-17 21:29 | 信仰の道