カテゴリ:大天運( 18 )

神人合一した人が最も大切。「大天運」の最後のまとめ。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


このエントリーが「大天運」の最後のまとめ。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

私は会員を増やすことを目的としているのではない。いわゆる教勢拡大などということは、眼中にないのだ。その理由は「神霊界」を読んでいただければわかってもらえるはずである。

問題は量ではない。質なのだ。どんなに多くの人が集まったとしても、一人ひとりのレベルが向上しなければ、それは単なる烏合の衆にすぎない。それよりも、たとえ数は少なくとも、一人ひとりが正しく神人合一の道を歩み、観音の位に達するならば、そのほうがはるかに価値がある。そして、現実的に世に役立つ。

教勢を拡大し、数の力で社会に影響を与えようなどというのはもう古いのだ。そして、そういう意識でいれば、遠からず、過去多くの宗教団体が辿った闘争と分裂の道を辿ることになる。それを私は、痛いほど承知している。だから、会員を増やすことだけに血まなこになるような、狭い了見はもたないようにしているのである。

くどいようだが、問題は量ではない。質である。しかし、良質はある程度の数の中から出てくるのも事実だ。質を第一と志せば、量はおのずから増えていくはずなのだ。これが天地自然の天意に合った、量的な発展であると信じる。

そのためには教育がいる。正しい指導がいる。だが、教育は言葉でするのではない。教理、教論のみでするものでもない。第一章で述べたように、真髄は言葉や教理、教論にはないのである。

たとえば、親が子供の教育をするとき、
「テレビなんか見ていないで、勉強しなさい。本でも読みなさい」
と、どれほど口をすっぱくして説教しても、あまり効果はない。言葉でいっても、子供はいうことを聞かないのだ。それより、親自身が勉強することである。本を読むことである。そうすれば、その親の姿を見て、子供はいわれなくても勉強したり、本を読むようになるのである。

本当の教育とは、本来そういうものなのだ。だから、私がどんなに偉そうなことを書き、どんなに偉そうなことをいったとしても、私自身の日々の生活、一瞬一瞬の心のもち方が道にはずれていたならば、人を教育することなど絶対にできやしない。それどころか、人は去っていくであろう。

結局、神、霊、現の次元で率先垂範するしかないのである。それだけに必死なのである。一日二四時間、寝ているときも起きているときも、一瞬も気を抜かないくらいの心構えで頑張っているのだ、仕事をするとき、救済除霊や前世鑑定などをするとき、決して邪気邪霊の入らぬよう、命がけでやっているのである。それが、私の修業なのだ。

だが、決して悲壮感でやっているわけではない。明るく楽しく修業しているのである。努力するのは楽しいし、当然のことをやるのだから充実感がある。内外の実力も伸びる。そして、自己を実現できるから、ますます楽しくなる。

このような毎日を積み重ねていくならば、いつか必ず観音の位に達し、世に大いなる貢献ができるようになるはずだ。





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by 2nike | 2015-11-10 21:21 | 大天運

観音と一つになると、生まれてくるも生まれてこないも、本人の自由となる。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


絶対神と顕現神。神は人間にわかりやすくするために、無限極から有限の姿となってお出ましになる。」で、紹介したように、神人合一という場合の神は、絶対神ではなく顕現神である。仮に聖観音と一つになれたとしても、道は永遠に続く。それゆえに「私たちはまず観音の位に達することを目指して励まねばならない。」と書かれているのだろう。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

聖観音と一つになると、生まれてくるも生まれてこないも、本人の自由となる。それが観音の位に立つということなのである。

何百年、何千年、何万年という魂の旅において、生きながらにして観音の位に立つと、死んで即、神様の御用に役立つことができる。もはや、霊界修業は不要となるわけだ。

すでに、肉体を持ちながら神人合一し、死後即、神様の役に立っている先人たちが何人かいる。数は少ないが、国家に有為な人材の大守護霊となって活躍している霊がいるのである。私たちも彼らを見習わなくてはならない。

再生転生の長い旅を楽しんで充実してくり返し生き、今世肉体をもってこの世に生まれてきたかぎりは、私たちはまず観音の位に達することを目指して励まねばならない。さらに、神様の御用に役立つグローバルな人間となり、宗門宗派はもっていても、それを乗り越えた大きな人間となって、人類救済の大聖願をもって活躍すべきなのである。




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by 2nike | 2015-11-09 22:24 | 大天運

この世の七〇年余りの人生は、長い時間をかけて聖観音の位に近づいていく、再生転生の一プロセス。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


深見東州氏のプロフィールを読むと、芸術、文化、福祉、宗教、学術、経営、スポーツ、国益に根ざした世界的な活動など、聖観音のようなオールマイティな働きを目指していることがわかる。しかも、毎年毎年、驚くような実績が追加されている。誠に敬服の極みである。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

過去、神人合一をして、オールマイティな神力を発揮した人物が幾人かいる。たとえば弘法大師空海や出口王仁三郎、聖徳太子、菅原道真、白隠禅師などである。彼らは皆、神人合一して、聖観音のように自在にして、超人的な働きをしたのである。

もちろん、イエスもマホメットも釈迦も一様に神人合一していたのだが、聖観音のようなオールマイティな働きはされなかったのである。

そのために、彼らは今現在、霊界において修業しているのである。大聖観音の位に就くために、民族的守護霊となったり、導きの神となってさらに自在性を養っているのである。もちろん、自在性を養うためだけに霊的活動をされているわけではないが・・・・・・。

そして、そのように修業を続ける必要があるのは、彼らのような聖人たちに限ったことではない。人間であるならば、誰もが聖観音の姿となるよう、修業を続けなければならないのである。この世に生ある限り一生懸命努力し、また死んで霊界に行っても、努力しなければならないのだ。さらには、来世再び生まれ変わっても、修業し続ける必要があるわけである。

だから、この世の七〇年余りの人生は、長い時間をかけて聖観音の位に近づいていく、再生転生の一プロセスといえるのだ。肉体を持った人間とは、いわば、霊的観音になっていくための天人養成機関なのである。

ここが、通常の仏教でいう涅槃寂静と私の見解との大きな相違点である。

世の宗教者や霊能者の中には、前世のカルマを抹消するために生まれ変わってくるのだ、と説く人が多い。だが、そんな考え方はあまりにも消極的であるといわざるを得ない。厳しくいえば、最低限度のレベルでしかない。神様の御心はそんなところにはないのである。

この修業を避けて通るわけにはいかない。今世にあるレベルまでやれなかったら、霊界でやり直さなければならない。霊界でできなければ、来世もう一度生まれ変わってやり直しをしなければならない。

来世でもできなければ、来々世。来々世でもできなければ来々々世。来々々世でもできなければ・・・・・・といった具合に永遠に続いていく。たとえどんなに苦しくても、やり直さなければならないのだ。

それなら、なるべく早めにやったほうがいい。今世肉体を持っているときに、すべてやり尽くしたほうがいい、ということになる。そう悟って腹をくくり、只今只今を前向きに楽しんで励む方が、奥の魂は充実し落ち着くはずだ。これが、本当の人生の意義なのだから・・・・・・。






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by 2nike | 2015-11-07 18:07 | 大天運

最終的には、自在性を備え、オールラウンドな働きをされる聖観音と合一することを最大の理想とすべきである

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


以前のエントリー、「絶対神と顕現神。神は人間にわかりやすくするために、無限極から有限の姿となってお出ましになる。」で、「神人合一の究極の理想像とは・・・・・・。」と書いたいたが、結論はここで。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

八百萬(やおよろず)の神々のうち、私たちはどの神様とひとつになるべきであるかというと、それは聖観音。一般には、聖観音と合一することを最大の理想とすべきなのである。

なぜ、聖観音を理想とすべきなのか。ひと言でいえば、聖観音は三十三相に化身されて、あらゆる場において万能だからである。ここで少し、多面性を備えているのがなぜ最高の像であるのかについて、経営者の理想と合わせて、さらに詳しく述べてみたい。

社長は、総務もできて経理もわかり、販売、宣伝も掌握できてオールマイティ。そうして初めて、代表取締役社長といえるのである。人事がわからない社長、販売がわからない社長、経理がわからない社長というのはあまりいない。中にはいるかもしれないが、それでは不完全である。

本当にすぐれた社長というのは、事業のすべてがオールラウンドにわかっていて、いざとなったら、何でもやれる。こういう社長が本物の社長なのである。

しかし、普段は部下に任せて、自分は全体の方向を見ているだけ。そして、経理担当の人間を相手にするときは経理の話をし、人事担当の人間を相手にするときは人事の話をし、販売だったら販売の話をする。あるいは銀座へいけば、ホステス相手に色恋の話もできる。要するに自在性を備えているわけだ。

そこが、中堅幹部との違い、平社員との大きな違いである。

神様も、取締役や社長と同じである。上のランクへいけばいくほど大自在であり、オールマイティなのである。

最高神が地に顕現するときの姿は何かというと、それがほかならぬ聖観音という千変万化の大自在性を発揮する神姿となるのだ。概念としてある最高神は、宇宙創造の主神であり、絶対者として君臨する存在である。それを数字で表現すれば「無限極∞」ということになる。

しかし、人間の智覚は有限である。だから、ユダヤ教もキリスト教も、イスラム教も仏教もそして神道もヒンズー教も、すべて人間が智覚できる神という存在は、どんなに「絶対者だ、ス神だ」といっても、有限な人間というものにわかりやすいように現れた、無限極からでた一つの仮の姿なのだ。

それゆえ、エホバもヤーベもゼウスも天之御中主も大日如来も本仏も、「∞極」の神権を委譲されて時代的、地域的、民族的な必要があって現れた、有限的な仮の姿であるといえる。つまり、世界の宗教の主宰神も「無限極∞」であるス神の大観音化身の姿であるわけだ。それが現実界に密接に現れたのが、聖観音なのだと考えればよい。

だから、神人合一して、人間か神様か、神様か人間かといった境地を目指せといっても、究極の目的は、たとえば大黒様とひとつとなったり、三宝荒神とひとつとなることではないのだ。それぞれの時代と場のニーズがあるだろうが、最終的には、オールラウンドな働きをされる聖観音とひとつとなり、聖観音のような人間になり、聖観音か人間か、人間か聖観音かというように自在性を備え、いかなる場所でも、いかなる人に対しても、いかなることもやりこなし、完全に神通大自在、弘通神力をマスターし、人々を救済できるような人間。こういう人がオールマイティな、本当の意味での神人合一した人といえる。これが最高にすばらしいのだ。




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by 2nike | 2015-11-06 17:27 | 大天運

観音様は万物の創造主自らのご化身でありながら、私たちの最も身近なところまできて、救済してくださる。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


日本人は、昔から観音様のことを好きな民族であり、観音信仰の霊的土壌が人気のあるテレビ時代劇に投影されているという。それは、観音様は万物の創造主自らのご化身でありながら、三十三相化身して、私たちも最も身近なところまできてくださって、その上、どんな願いでもかなえてくださるからにほかならない、とのことである。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

今までどの本を見ても、このように観音のことが万物の創造主自らのご化身であると明言しているものはない。それゆえ、ちょっと密教の知識のある人ならば、素朴な疑問が湧いてくるに違いない。つまり、

「胎蔵界、金剛界を統率し、三千大世界の法界を治めている主神なり、元神は、ビルシャナ大日如来である。代表者であると同時に、仏を構成している因子であるともいわれている。この仏様こそが最高至尊の本仏であり、観音とは、観音院を主宰している仏様にすぎないのではないか」

と。なるほど、弘法大師の代表作である「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)」にも天台宗の教えは観音院の教えであり、大日如来を仰ぐ密教を一〇番目とすれば、八番目のランクにしかすぎないとあるくらいだから、そう思うのは無理ないかもしれない。

あるいはまた、
「西方浄土にあっても、阿弥陀仏が最高、最貴、最至尊のみ仏であり、観世音菩薩は、勢至菩薩とともに、その脇仏にすぎないのではないか」
といわれるかもしれない。

たしかに、そのとおりである。しかし、神霊界よりみれば、これにはちゃんとわけがあるのである。つまり、元の最高ス神は、無限絶対極の神なのであるが、仏界である胎蔵界、金剛界においては、会社にたとえるなら代表取締役権を大日如来に委譲し、自身はその配下にへり下って、最もかわいいわが子である衆生の救済のために、粉骨砕身のご活動をしておられるのである。

では、西方浄土の場合はどうか。
それは、子会社の代表取締役に阿弥陀如来様を任じて、ご自身は脇士となられて、いとしき衆生の救済のために、気軽にお手伝いにきておられるのが真相なのである。

それゆえ、「水戸黄門」「暴れん坊将軍」「桃太郎侍」「大岡越前」「遠山の金さん」などの人気テレビ時代劇の設定は、すべてこのパターンになっているのである。つまり、最高の身分の方なのであるが、庶民のために姿を変えて、どのような悩みでも聞いてやり、正義のための大活躍をして、必ず善なる人の願いがかなって勝つことになっている。だから安心して見ていられるのだ。人気のあるテレビ時代劇は、だいたいこのワンパターンなのである。

私たち日本人には、長い文化の伝統に根ざした観音信仰の霊的土壌が、知らない間に形成されているのであって、その観音様の像、すなわちス神様の像を時代劇に追い求めてきたのであると思われてならない。

ただし、人気のあった長寿番組「銭形平次」は違う。化身ではないが、町中の辻々にいて、何でも願いを聞き入れて、どんなところにも入り込み、汗をカキカキしながら救ってくれるお地蔵さん信仰のパターンだと思われる。





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by 2nike | 2015-11-05 17:49 | 大天運

神人合一のレベルと観音の働き

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


「正観音(せいかんのん)」、「聖観音(しょうかんのん)」、「観世音菩薩」については、深見東州氏の著書「パワースポットシリーズ 浅草」に詳しく書かれている。浅草の観音様は本来は「聖観音」様だが、毎年七月十日の「四万六千日」には、富士の「正観音」様がおりてこられる。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

一口に神人合一といっても、さまざまなレベルがある。最初のレベルは、悟りを開くことによって、肉体は人間であっても内面が仏様のようになる状態。すなわち、禅でいう「見性成仏」レベルの神人合一がそれである。

次のレベルは、内は禅定であって身、口、意と揃い、働き自在のみ仏と合体する状態。すなわち、台密、東密で知られる密教系の「即身成仏」レベルの神人合一である。

そして、この上のレベルが、本当の惟神(かんながら)の道における神人合一であって、天津神、国津神、八百萬(やおよろず)の神々、仏界、ヨーロッパ神界、インド神界、中国神仙界、および極微神界、大宇宙のすべての次元の神々と合一して、人類救済、文明文化創造の大神力と大弘通力を発揮するのである。

モーゼや出口王仁三郎、弘法大師、日蓮上人、聖徳太子、さらには明治天皇や神武天皇、日本武尊、神功皇后を初めとする古代の天皇たちは、多かれ少なかれ、皆、このレベルで神人合一しており、それぞれの時代を切り開いてきたのである。

ところで、これらすべての神々の働きを総称して何というかというと、
「スの観音大自在の大御働き」
と申し上げるのである。

観音とは、宇宙創造の大元である主神ともいえるが、スの神が、お姿を顕現されたときの状態を総称して申し上げるのである。

すべての天神の次元に、瞬間のうちに化身できるのが「正観音(せいかんのん)」(六次元)。すべての地神の次元に化身できるのが「聖観音(しょうかんのん)」(五次元)。すべての仏の次元に化身できるのが「観世音菩薩」(四次元)と申し奉る。

これを神式に置き換えれば、「木花開耶姫(このはなさくやひめ)」の神様と同体異名である。この場合も、「木花開耶姫之大神(このはなさくやひめのおおかみ)」から「木花開耶姫之尊(このはなさくやひめのみこと)」となり、さらに「木花開耶姫之命(このはなさくやひめのみこと)」となって、次元界をスライドしておりてこられるのだ。

だから、以前、私たちのグループが作製し、私が真を入れさせていただいていた観音像も「聖観音」なのである。それは、必ずしも次元界の高い神様が目前の苦しみを救ってくださる最高の神仏とは限らないからだ。むしろ、私たちの悩み事を直接助けてくださるのは、次元界におりられた神仏のご活動である場合が多い。前著「大金運」で詳説した「大黒天」や「三宝荒神」などがそれである。

だから、わざわざ「正観音」ではなく「聖観音」様にきていただいているのである。また、「観世音菩薩」様にしない理由は、「神と仏」の両方が活用できないからだ。

菩薩となって現れ、四次元霊界に深く入り込み過ぎると、霊障を引っ張り出したり、守護神、産土神、天照大御神などの、日本神界中枢の神々たちとの間に距離ができる。ところが「聖観音」様だと、自動的に必要なときには四次元界にもおりてくださって即応できるし、神道の有力神霊とも交流がすみやかなのである。





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by 2nike | 2015-11-04 17:37 | 大天運

ものごとの善悪はどこで判断するのか。何が正しくて、何が誤りなのだろうか。結論は、「中」ならば正。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


四書五経の「中庸」については、
ワールドメイトは教えを勉強するところではない。教えを通して道を勉強するところ。
でも紹介しているので、ご参照ください。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

四書五経の「中庸」には、このように記されている。
「中は喜怒哀楽の発する前にして、ひとたび発して節に中(あた)る」
「中」というのは、右に寄らず左に寄らず、まん中という意味ではない。人間の喜怒哀楽の発する前にあるのだが、ひとたび発して節に中るのが「中」なのだ。具体的にいえば、無形のうちにあって、強いときには強く、弱いときには弱く、どうでもいいときにはどうでもよくしているタイミングや呼吸が「中」であり、ツボにはまった生き方のことなのである。これが正なのだ。

反対に、強く出なければならないときに弱かったり、弱くなければならないときに強く出たり、あるいは頑張らなくてはならないときに怠けてたりするのは正しくない。「正」とは「一で止まる」と書き、一番大切な原点である「中」や先天や太極に止まって事を為す状態のことなのだ。

このように正とは、キリスト教でいう善悪の観念や宗教倫理に合致していることではない。それよりも、中国思想に照らし合わせるならば、すべての行いにおいて「中」にあること、すなわちツボにはまっていることが正なのである。この中正こそが道を行う原点であり、すばらしい極意だといえるものなのだ。

他力と自力を考えた場合、想念術、阿頼耶識などというのは、自力のほうに偏りすぎている。他力の世界を完全に無視してしまっている。神はすべて内在していると思い込んでしまっている。反対に南無阿弥陀仏とかキリスト教、あるいは拝み信仰、お陰信仰というのは、なんでも他力に帰結させてしまう。神様だ、守護霊だ、おキツネ様だ、ご先祖様だと、自分の意識の外のものばかりを見てしまっている。これは他力過剰、甘え過ぎ、依頼心が強すぎるといわざるを得ない。

では、正しいのは何なのかとなると、中正。くり返すが、他力と自力が十字に組んで「中」に止まる。これが正しいのである。他力の中に自力あり、自力の中に他力あり、自力のときは自力、他力のときは他力という具合に活自在になって初めて、神人合一の妙境を行じることができるのである。

このように中正ということの深い意味を理解し、かつ掌握すれば、それはすなわち、正しく神を掌握したことになる。と同時にそれは、神人合一していることになるのである。そして、これらのことが完璧にマスターできるようになるまでのプロセスを神人合一の道と呼ぶわけである。

そうして、そのプロセスがある程度まで進むと、人間か神か、神か人間かわからなくなる。それくらい、すばらしい人間になれるのである。神人合一して初めて、本当の意味での聖人にもなれるのだ。





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by 2nike | 2015-11-03 20:20 | 大天運

神人合一の道を極めるには、他力に頼ることを知り、自力と他力が十字に組むのが理想。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


「大天運」はプロローグ、第一章~第五章で構成されており、第四章までは人として生まれてきた限り、誰もが理解し、心がけるべき内容であり、いわば、因縁因果に対する基礎の解説である、と書かれている。深見東州氏が本当にいいたいことは、第五章に凝縮されている。何回かに分けてこの第五章の内容を紹介したいと思う。
以下は深見東州氏の著書「大天運」の第五章より。

どうしたら神人合一の道を極めることができるのであろうか。それにはまず、他力に半分頼ることを知る必要がある。

すでに述べたように、現在、一部で盛んに行われている想念術とか阿頼耶識(あらやしき)論、あるいは密教でいう瑜伽(ゆが)論や眠っている大脳を呼び起こそうという大脳生理学などは、すべて自力本願である。眠っている宝をメディテーションすることで呼び覚ますという点において、自力本願、別のいい方をすれば我力の強化であるといえる。

だが、これは人間が到達しなければならない理想の状態である神人合一ではない。瞑想することで宇宙の生命とひとつになるなどといってはいるが、決してそれは神人合一ではない。あくまでも、自力で自分の潜在能力を引き出そうとしているにすぎないのである。

神は私たち人間の中にも内在している。その神を発見するという点では、先にあげたいくつかの方法も間違いではない。だが、神は内在しているだけではないのだ。天地自然にも神霊があり、宇宙も神が創造したものなのである。だから、神とひとつになるには、自分以外の力、つまり他力に頼る要素も必要となるのである。

神人合一というと、瞑想や荒行をして人間のほうから神に近づいていくものと考えられがちだが、決してそうではない。あくまでも、神様から見て、
「こいつは立派な人間だ」
「この人を通して、少しでも世の中をよくしたい」
と映るよう、自己を修養していく。これが神人合一の道の修道なのだ。いわば、日々の生活の中で虚心坦懐に徹し、私心と我欲を捨てる修業をして、誠の道を極めることが神とひとつになる大切な方法なのだが、これについては「神霊界」で詳説しておいたので参照していただきたい。

一方、他力本願にも問題がある。他力ばかりに頼り過ぎるのも、やはり偏しているといわざるを得ない。前にも少しふれたように、他力、他力といっても、自分に合った他力しか出てこないのだ。自分自身が磨いた内面性と外面的な実力、この内外の実力に合わせた形でしか、他力は活用、応用、運用できないのである。このへんが、過剰な拝み信仰の弊害なのである。

自力と他力に関していうならば、この二つが十字に組むことが大切である。それはいわば、先天の修業と後天の修業が十字に組んでいることであり、これをみごとにやり遂げたのが、「神霊界」でも述べたように、出口王仁三郎や黒住宗忠、日蓮上人などなのである。
自力、自力というが、実際はその自力の阿頼耶識の中に出ている自分に、守護神や守護霊などの神々が、目に見えない形でこっそり助けてくれているのである。

また、他力を動かすというものの、自分自身の努力で愛と真心を貫き、眠っている宝をいかに奮い起すかによって、他力の出方も違ってくるのである。

だから、自力の中にも他力が入っており、他力の中にも自力が入っているのだ。そのパーセンテージの違いによって、現実には自力であったり、他力であったりと定義するわけである。そして、その自力と他力がピタッと十字に組んで「中」にはまっている状態、つまり、ツボにはまっていてどちらにも偏ることなくバランスがとれている状態が神人合一の状態であり、中庸の「中」に帰結していて正極を得ているのである。





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by 2nike | 2015-11-02 21:10 | 大天運

因縁因果の法則と除霊(救霊)の関係

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


救霊については、「大除霊」より、
ワールドメイトの救霊を受ける前に知っておくべきこと。その後にすべき大切なこと。

不昧因果については、「神仏のことがわかる本」より、
ワールドメイトの支部で、神業を続けていくうえでのターニングポイントについて質問された。

不昧因果の境地に学ぶも、なお艱難辛苦が与えられた時、欲得に流されそうになった時、どうすればよいか?

ある程度、業が晴れてくるとどうなるか。またワールドメイトの「北極免因超修法」で業を晴らすとは。

これらのエントリーを参考にしていただくとわかりやすいと思う。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

すでに述べたように、善因善果、悪因悪果の法則は天地自然の法則、神様の法則であり、それゆえにこそ、この法則はどんなことがあっても変えられないのである。だから、神様の愛、大愛といっても、大難を小難に、小難を無難にという具合に、因縁因果を縮小するのが精一杯。すべてを清算するというのは、絶対に不可能なことであり、不平等なことなのである。

実は、その大難を小難に、小難を無難にというもののひとつが、ほかならぬ除霊なのである。だから、除霊したからといっても、すべてよくなるということはないのだ。

「神界からの神通力」でも書いておいたが、先祖霊の場合、地獄界にいるならば中有霊界の下段へ、中有霊界の下段にいるならば中段へといった具合に、依頼者の誠と改心の度合いに応じて霊層を数ランク、アップするのが精一杯なのである。

しかし、それでもビックリするほどよくなったと実感する人は多い。特に、数百年来のたたり霊軍団や変死の先祖霊、土地や屋敷の因縁霊などが救済されると、人が変わったように爽快で元気になる場合が多いのだ。

だが、数百年来人を現実に苦しめて財を成しあるいは多大な苦を人々に与え続けた結果できた家伝の劫、または地獄界の祖霊たちが、わずかなことで救われ、完全で長久なる子々孫々へと続く繁栄が約束されることはない。もしそれができるなら、神様は何と不平等なのだといわざるを得ない。

災いが最小限に止まり、改善に向かう転機が訪れるのが除霊(救霊)であり、あとは当人の努力次第なのである。

私も、つい情にほだされて通力を出し過ぎ、救済しすぎたことによって、何度も神様から戒められた。

「依頼者からの誠と愛、苦労と努力に相応して神を取次ぎ、人々を助けるのが救済の真である」と。

おわかりいただけたであろうか。除霊(救霊)といっても、決してすべてを解決できるものではないのである。だから私は、除霊を受けたあとのすべてを改善させる積極的な想念と努力のあり方のほうが大切であるといい、できるなら日々の生活の中で鋭意努力して、自分の手で因縁を切る心構えが必要である、と述べたのである。命がけで求めるなど、よほどの場合は別であるが・・・・・・。





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by 2nike | 2015-11-01 17:32 | 大天運

他力運用の極意とは、天地の法則に合った人間としてのあるべき最高の努力を為し、至誠に徹すること。

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自分自身の御魂を善の方向で刺激する項目の中に、「映画鑑賞」が入っているのを見落としていた。私は、テレビを見ない生活が長く続いているので、映画もほとんど見ていなかったのだが、これを機によき映画を鑑賞しようと思う。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

いい前世、いい潜在意識を引き出すには、四忽主義に心を向けると同時に、なるべくすばらしい霊的環境に身を置くことが大切なのである。

友人、配偶者、職業、読書、映画鑑賞---これらの一つひとつについて、できる限り、自分自身の御魂を善の方向で刺激するようなものを選ぶことが望まれるのだ。

一般に前世というと、即前世、つまり現世のすぐ前の前世が色濃く出てくるのだが、この四忽主義でよき宝を得るよう絶えず努力していくと、最もよかったときの前世が出てくるようになる。それが前々世であるか前々々世であるかは、個々人によって異なる。

いずれにしても、只今只今、その人が接触している人間、仕事、そしてその人自身の考え方によって、いいときの前世が出るか、悪いときの前世が出るかが決まるのである。だから、只今の一瞬一瞬が大切なのだ。いわば、只今只今は、善と悪との分水嶺であるわけだ。

そうして、善が出れば学問、芸術、信仰の要素が融合開花して、ますます才能が磨かれ、さらに、この無形の宝が、有形の現実的な宝を生み出していくのである。

このように考えると、いかに、一瞬一瞬の心の使い方、想念のもち方、あるいはまた、一瞬一瞬の言動と環境が大切であるか、おわかりいただけるであろう。

いずれにせよ、自分のもてる能力、天賦の才を余すところなく発揮するには、心を誠にし、言葉を誠にし、行動を誠にして、より大善を目指していくより道がないのである。

そこに大天運と天佑神助がきて、その都度、その都度に遭遇する壁やいきづまりを、ポーンとみごとに越えさせてくれる妙力や神智が授かるのだ。それが、徳と才能以上のプラス・アルファとなって、現世の幸福を支えてくれるようになる。これが神徳というものなのだ。

儒教や仏教がいうところの、天地の法則に合った、人間としてのあるべき最高の努力が為され、しかも、誠が極まっていたならば、実在の神霊の力と働きが備わり、妙、玄、通、光、気の神徳が授かる。

これが大天運である他力運用の極意であり、神人合一の妙味妙境といえるものなのである。





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by 2nike | 2015-10-31 17:23 | 大天運