カテゴリ:大天運( 18 )

儒教の根源の根源となっている名文「道心これ微かにして、人心これ危うし」と、四忽主義との深い関係と意義

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


「道心これ微かにして、人心これ危うし」という言葉は、深見東州氏の講義でも聞いたことがあり、心に残っている内容である。今回本を読み返してよかったと思うのは、「堯(ぎょう)が舜(しゅん)に伝えた、政治と聖道修業の極意とされる、儒教の根源の根源となっている名文」というところを再認識できたことである。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

これまで私は、前世のよい面だけを述べてきた。だが実際には、悪い面もあるのだ。決してよい面ばかりではないのである。人を苦しめたり、あるいは殺したりしているかもしれないのだ。そうした悪事も、私たちの御魂の奥にしっかりとインプットされているのである。

それゆえ、条件さえ合えば、至極簡単に前世の悪しき記憶が出てくるのだ。これは恐ろしい。ひとたび、悪しき記憶が出てくると、よいものまですべて食い散らかされてしまうからである。
「悪貨は良貨を駆逐する」
という、経済学者グレシャムの法則どおりの世界になってしまうわけだ。

だからこそ私たちは、ある意味では命をかけるくらいの気持ちで、よき人、よきものとの出会いを大切にし、俗悪なもの、醜悪なものを避けなければならないのである。

子曰く、
「礼に非(あら)あらざれば視(み)ること勿(なか)れ。礼に非あらざれば聴くこと勿れ。礼に非あらざれば言うこと勿れ。礼に非あらざれば動くこと勿れ」

これを四忽(しこつ)主義というのだが、師の言葉を聞いた顔回はこれを固く守り、以後、四忽主義を貫いて、仁の道を成就した。そのことによって、
「顔回、三月仁に違(たが)わず」
とまでいわれたのである。三月とは三ヶ月のことではない、長い年月の意である。顔回は長い間、仁に違うことがなかった。そのため、孔子に次ぐ聖人ということで亜聖と呼ばれ、後世では復聖ともよばれたのである。

ところで、この四忽主義を本来の観点からいい換えると、このようになる。
「道心これ微(かす)かにして、人心これ危(あや)うし」
この有名な言葉は、孔子が理想にしていた古代の理想社会の統率者、最高のまつりごとを行っていたとされる帝であり、聖人であり、大政治家でもあった堯(ぎょう)が舜(しゅん)に伝えた、政治と聖道修業の極意とされる文であったのだ。いわば、儒教の根源の根源となっている名文である。

「かすかで、ちょっと油断してしまうと消え入り、おおわれてしまいそうな神魂の発露である道心を、温め、温めて大切に育てていこう。そうして、それらを台無しにしてしまう張本人であり、人生のあらゆる失敗と過ちの原因となる人欲、人智のことである人心を、なるべく小さくし、触発せず、道心が人心を完全に制圧し、統率しきって、わが身が仁そのものとなるまで、五倫五常の実感が最高にいい状態であるよう、意志の力を発揮して、自分の日常生活の中で四つのことに気をつけよう。最大限の努力をしよう」

というのが、「道心これ微かにして、人心これ危うし」という言葉と、四忽主義との深い関係と意義なのである。





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by 2nike | 2015-10-30 17:18 | 大天運

宝は「他から」やってくるというように、すばらしい人、書物、環境との出会いで才能が開花する。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


私のすばらしい書物との出会いは、Amazonで人気のある本や古典、あるいは好きな著者を追いかけていくことによる邂逅であることが多い。それらの本によって才能が開花したかというと自分ではよくわからない。しかし、少なくとも深見東州氏の著書を読むことで、悪しき習慣が改まり、良き想念を維持できるようになったことは間違いない。良き本は人生を変えてくれるといえるだろう。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

別の角度から見れば、学問と芸術と信仰の三つが無形の宝ともいえる。財産や地位などの有形の宝は、いつかは必ずその形を失う。だが、学問、芸術、信仰の三つは自分の中に永遠に残る。そして、恩頼(ふゆ)として御魂の奥深く記録され、再び生まれ変わってこの世に出てくるとき、才能となって現れるのである。

では、そのような貴重な才能はどのようにして現れるのだろうか。生まれながらにして、自然に開花するのであろうか。いや、そうではない。一部の大天才は別として、自然に開花することはほとんどないのだ。

日本の言霊学(ことだまがく)では、宝は「他から」やってくる、と解釈する。つまり、有形無形は問わず、宝は自分で生み出すものではない、他からもたらされるのだ、というわけである。

では、他からの刺激とは何か。それは、出会いである。すばらしい人、すばらしい書物、すばらしい環境との出会いである。すばらしい人と出会って初めて、人生の本義に目覚めたり、すばらしい書物や音楽などに出会って初めて、眠っている前世の才能が芽吹くのである。

ところで現在、自己の潜在意識を引き出すための瞑想術とかメディテーション、あるいは阿頼耶識(あらやしき)、瑜伽論(ゆがろん)といったものが、一部で盛んに行われているようだが、これは感心しない。なぜなら、これらは自分で自分の意識を呼び起こそうというものだからである。

自分を知りたければ、自分を見つめる周囲の人の眼を見ることである。そのほうが、はるかに簡単だし、正確である。

前世の記憶、前世で積んだ学問、芸術、信仰の要素というものは、外からの刺激がきっかけとなって、ドーンと飛び出してくるのである。が、それにはひとつの条件がある。その条件とは顕在意識の醸成である。

御魂の奥に眠っている前世の記憶、いわゆる潜在意識と呼ばれるものは、あくまでも顕在意識の醸成度合いに応じて、飛び出してくるもの。それゆえ、どうしてもある程度の知識や経験が必要なのである。

だが、反対に顕在意識が強すぎても、これまた問題である。というのは、この世の知識をたくさん蓄え、豊富な経験をもってしまうと、今度は逆に顕在意識が殻となって、潜在意識を押さえ込んでしまうからである。

できるものなら、なるべく若いときに神霊世界の真実を知り、前世の記憶を引き出したいものである。聖書にも、
「汝の若い日に、汝の造り主をしれ」
とあるように。





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by 2nike | 2015-10-29 22:33 | 大天運

徳積が極まれば「功候」が立つ。そしてあるレベルに達すると、ひとつの悟りの境地に至れるようになる。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


無形の宝とは、神霊世界に当てはめていえば、「徳と功候(こうこう)」であり、徳については、ひと言でいえば、「人に益する行いをすること」という内容は、一つ前のエントリーで抜粋した。ここではもう一方の「功候」について、以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

いずれにしても、善を行うとき、人に益することを行うときは、あまりくよくよする必要はないのである。
「間違っていたら許してください。尺度が浅かったら勘弁して下さい。知恵が足りなければ正しい方向を教えてください」

神様とこんな関係をもつことが、神と人とが接近し、合一しているというひとつのいい状態となっているのである。

そうして、徳をどんどん積んでいって、その徳が極まると、やがて功候、つまり神様のほうから見た功(いさおし)が立って、無形の候となる。この功候は神霊世界の帳簿にすべて記入され、私たちが死んで霊界に行くときの、いき先決定の判定資料となるわけだ。

普通、神霊世界では誰でも平等に扱われるかのように考えられがちだが、実は、神霊世界にも階位、階層があるのだ。地位、名誉、位といったものが厳然としてあり、その立て分けの厳しさは現実界のそれの比ではない。だから、決して誰でもイコールに扱われるというわけではないのだ。

たとえば、ヨーロッパ神界のエンゼルにしても、みな同じ姿をしているように思えるものの、その実、上へいけばいくほど高貴なガウンやイヤリング、冠などを付けており、地位名誉が峻別されているのである。

ところで、この功績は徳を積んだ本人だけ授けられるように考えられているが、実はそうではない。私たちを守護している守護霊にも功候が授けられるのである。

なぜ、守護霊は私たちを守護し続けているのか。それは愛と誠なのであるが、徳を積んで神様から功候をいただくためでもある。つまり、守護霊として活躍することで、徳を積む修業をしているわけだ。そして、その修業に合わせた形で功候が授かり、神霊世界のランクも上がっていくのである。

さて、徳を積み、功候を積んでいってあるレベルに達すると、ひとつの悟りの境地に至れるようになる。つまり、小善を積んでいたころに比べて、より大きな善から物事を見ることができるように御魂が進歩、発展するのである。これを御魂に智恵と証覚が備わってきたというのだ。

そして、ここからさらに大善を積んでいくと、より一層大きな徳と、功候を積むことができるようなるわけである。

このレベルに至って初めて、世に大いなる貢献ができるのである。大神人、大聖人とは、ここから上の人のことをいうのである。神人合一の境も、だいぶ深まってきているといえよう。





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by 2nike | 2015-10-27 21:15 | 大天運

無形の宝とは「徳と功候」。徳には「地徳」「人徳」「天徳」があり、善には失敗しやすいパターンが三つある

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


深見東州氏も善を行うのが怖くなった時期があったそうだが、最終的には、惟神(かんながら)の道の救いにより、つまり、不完全を承知で一歩一歩、善行を為す霊的位と咀嚼力が進歩向上していけばよい、という救いにより覚悟を決められた。文中のくだりを読んでいると、「発願」「行動」「絶叫」(神霊を動かす法、「発願」「行動」「絶叫」。ワールドメイトで学んだ不滅の法則。)のプロセスを経て、最後に神様が現れて一厘を授けてくださったのではないだろうかと想像してしまう。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

無形の宝とは、神霊世界に当てはめていえば、「徳と功候(こうこう)」である。徳だけでは無形の宝とはいえない。徳と功候がそろって初めて、無形の宝になるのである。

功候については後述することにして、徳については、ひと言でいえば、「人に益する行いをすること」、これが善であり徳である。目に見える形で益するか、目に見えない形で益するかはともかく、人にプラスになること、人に益することをしてあげることが、徳を積むことになるわけである。もっと厳密にいえば、これは「地徳」といわれるものである。

このほかにも徳には、自己を修養することで得られる霊光である「人徳」、天理と神霊世界の法則を識って太極の主神を動かし、至誠の信仰力にて諸天善神を動かし、才能を磨いて御魂に色彩を加える「天徳」などがある。

さて、ひと口に人に益する行いといっても、一体何が人に益することなのか。結論をいえば、「ひとによかれ」という想いに裏打ちされた口と心と行いが、人に喜ばれ、いい結果になること、すなわち善となり、徳となることなのである。

だが、この善がくせ者なのだ。一般に、善に関して失敗しやすいパターンが三つある。「独善」「偽善」「小善」の三つがそれである。

「独善」とは自分ひとりが善だと思うこと、つまりひとりよがりである。これについては、改めてご説明するまでもないだろう。広い知恵が足りないのである。「論語」にある「思いて学ばざれば、即ち危うし」の危ういとは、この独善の危険を戒めているものにほかならない。

二番目の「偽善」とは、形の上だけ善で、心の中は善ではないということ。目に見えない無形の徳とは、まず無形の心、動機を善にしなければ、本当の善とはならないのだ。それをしないで、形の上ばかりの善、目に見える結果だけが善なのが「偽善」というわけである。本当の善には、無形の真実である愛と誠がこもっていなければならないのだ。

三番目の「小善」は、自分なりに善だと思っても、より大きな目でみたら、むしろ悪になることもある、ということ。つまり、口と心と行いのすべてが善であっても、それだけでは善にならず、大局から見ても善であって初めて、本当の善になるというわけだ。

このように考えると、善を行うのが怖くなってしまう。しかし、私はわかった。そんなことは、神様は先刻ご承知なのだ、ということを。

だから、あまりくよくよ迷う必要はないのだ。神様にもよかれ、人にもよかれという気持ちを満たした上で、至誠を貫けばいいのである。

「世の中に、絶対の善も悪もない。本当の善悪は、万物創造の絶対神にしかわからないのです。科学の発達という視点から見れば、いまわしい戦争だって善となることもあります。しかし、それでも私たち人間は、善行を為さねばならない。では何を基準にするのか。今、当面、人が幸せになり、世の中にプラスになると思ったことを善と信じて、慈悲をベースにしてどんどん為せばよいのです。そして、大局から見て小善だと悟ったら、そのとき、そのとき直していけばいいのです。そこに、人間としての進歩があるのです。もし、このことがよくわかって善行に励むなら、少々善を施したところで、傲慢になったり善行を誇るなんてことにはならないでしょう。かえって、絶対善は主神のみぞ知り、人間の為す善はすべて相対的だというほうが、謙虚であり、精進努力し、進歩向上する励みになっていいんじゃないですか」





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by 2nike | 2015-10-26 20:03 | 大天運

「易経」の「陰極まりて陽、陽極まりて陰」。古来、君子はこの法則をもって、修身の鏡とした。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


昨日(10月23日)「深見東州のぜんぶ私の歌、ぜんぶ私の話」の1回目の放送があった。
ラジオNIKKEI第1 毎週金曜日 23:30~24:00
たちばな出版、みすず学苑が提供する、事業家、教育者、芸術家など多彩な顔を持つ深見東州氏が物事の森羅万象を語る新時代の“ラジオエッセイ”で、この番組は放送終了後、オンデマンドで再放送配信を行っている。
http://www.radionikkei.jp/utahanashi/
さて、タイトルの内容について、以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

無形の目に見えない宝を積んでいけば、有形の目に見える宝に「化する」ということは、「易経」にある言葉、
「陰極まりて陽」
と表現することができる。

草木の芽がふき、いかにも春らしい風情となる前には、すでに目に見えない世界で春が始まっているのである。

したがって、夏真っ盛りというときにはすでに秋の訪れがきていて、冬真っ盛りのときにはすでに春の訪れがきているのである。

この「陰極まりて陽、陽極まりて陰」の法則は、何も天地自然の運行にだけあてはまるものではない。人間の運勢、国家の栄枯盛衰にも当てはまるのである。それゆえ、古来、君子はこの法則をもって、修身の鏡としたのである。

すなわち、自分の名声が高まっているとき、他人から評価されているとき、調子がいいときはすでに凋落が始まっている、だから、有形の宝が開花しているときにこそ、傲慢にならず、地道に目に見えない徳を積まなければならず、次の開花のための準備もしなければならない、と。

逆に冬が厳しくてつらいときには、すでに目に見えない世界では春がやってきている。この苦しみ、悲しみ、絶望の冬の時代も、やがて暖かい春の陽光に包まれるのだ。だから、冬の真っ盛りでも絶望してはいけない。悲観してはいけない。勇気をもって、目前の困難に立ち向かうべきである、と。

これが、正しい人生の春の過ごし方であり、冬の越え方なのである。





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by 2nike | 2015-10-24 22:24 | 大天運

有形の宝と無形の宝。孔子のいう「君子は本(もと)を務む」の「本」とは本質であり、無形の宝を指す。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


本文では、仏教について「三法印」だけでなく、「一切皆苦」をつけ加えた「四法印」についても説かれているが、ここではエッセンスだけを取り出してみることにする。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

古来、「有形の宝は空しいだけ。有形の宝を追ってはいけない。無形の実相や天国にこそ真実があるのだ」と教えてきたのが宗教である。

しかし、有形の宝、この世の宝が悪かというと、決してそうではない。有形の宝も必要なのだ。なぜなら、有形の宝と無形の宝の両方を与えて、人間を物心両面に幸福にしようとなさるのが主神の御心だからである。それゆえ、これまでの宗教がいうように、有形のものが空しいというわけでは決してない。

ただし、有形の宝には大きな問題があるのもまた事実。それは、有形の宝ばかりを追求していると、執着心が生まれ、妄念妄想がわいてくることである。それが、霊的にも現実的にも不幸の種となるからである。あまりに財産ばかり追い求めると、ついには物欲のとりこになって、心の中が地獄と化してしまう。これが問題なのだ。だからこそ、古来、多くの宗教が有形の宝に対する欲を捨てるように教えてきたのである。


仏教は、難しく考えればとてつもなく難しくなるが、簡単に考えれば「三法印」に要約できる。つまり、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」「諸法無我(しょほうむが)」「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の三法印である。

二番目の「諸法無我」とは、諸々の形あるものは我がない。つまり実体がないということ。形のあるものは、やがて形を失い、水蒸気のように消えてしまう、という意味である。

無形の何かが有形なものになっていくのを「化する働き」といい、有形のものが無形のものになっていくのを「変ずる」という。この「諸法無我」は「変化」という側面から見れば、「変」について語っているといえよう。
この仏教思想はあまりにも消極的であるといわざるを得ない。

(むろん、真正の釈迦の教えはもっと明るく、積極的である。ただ、インドという社会と風土、中国という社会と風土を経て、日本に伝わるまでの間に、こう色づけされたのである。)

これではいけない、私たちが本来目指すべきは、「変」ではなく「化する働き」のほうである。つまり、無形の宝を積んでいくと、やがて有形の宝となって現れるという側面に視点を置いて、ますます無形の宝を積むことに努めなければならないのだ。

このあたりをとらえて、孔子は次のようにいっている。
「君子は本(もと)を務む」
と。すなわち、立派な人物は枝葉末節の結果などには目もくれず、つねに本になることに一生懸命励んでいる、というわけだ。では、「本」とは何か。「本」とは本質であり、無形の宝である。つまり、立派な人物は、学問や道や徳などの無形の宝を積み重ねることに熱心で、財産や地位、名誉などの枝葉末節には無関心であるが、その人間としての価値を認める周囲の人々によって、有形の宝である地位や名誉も自然に備わる、というのがこの言葉の意味なのである。





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by 2nike | 2015-10-23 21:38 | 大天運

絶対神と顕現神。神は人間にわかりやすくするために、無限極から有限の姿となってお出ましになる。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


神人合一という場合の神は、絶対神ではなく顕現神である。もし私たちが、産土神や守護神との合一することができれば大変素晴らしいことであるが、目指すべきところは他にある。神人合一の究極の理想像とは・・・・・・。本書の後半にこの点が述べられているので、しばらくお待ちいただきたい。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

まず結論から先にいえば、宇宙創造の主神とは、真を極めれば科学や法、理に通じ、善を極めれば宗教や道徳、倫理に通じ、美を極めれば芸術に通じるものなのである。この真、善、美すべてが主神の一部であり、あまりにも広大無辺であって、人智をまったく超えているのが実体である。

無限絶対無始無終、至大至小、至剛至柔であって、全知全能を内包しておられるのが、宇宙創造の主神である。

だから、たとえどんなに努力しても、これを知ったり体得することはできない。その限りでは、神と人との間には永遠の溝があるといえる。

だが、神は人間にわかりやすくするために、無限極から有限の姿となってお出ましになるのである。これが、神霊とか顕現神と呼ばれるものなのである。

ちなみにいえば、世の多くの宗教者や霊能者、とりわけ開祖、教祖といわれる人々が、傲慢になって道を誤る大きな原因は、この絶対神と顕現神の違いについて、明確に理解できていないことにある。自分が見た神、自分が聞いた神の声こそが絶対であって、他はすべて偽りであると確信する。こうして、次第に傲慢になっていき、ついには神の願いからもはずれてしまうのである。

人間が感知できる神は顕現神である。だから、どんなに真実の神に思えたり見えたとしても、それは、絶対神のごくごく一部でしかないのだ。

では、そうした無形、無限の神に向かっていくには、どうしたらいいのだろうか。それにはまず、自分の中にある無形の部分で無形なものを感じ、真に、善に、美に、永遠に、広く、高く、深く、繊細に、濃く、無限に向けて進歩発展していったらいいのである。

それを、神様は人間に対して望んでおられるのである。その過程で目前に現れる神は、宇宙森羅万象を統率される唯一絶対神のごく一部だとわかった上で、謙虚にこれを味わい、楽しみ、進歩発展と幸せのために活用していったらいいのである。それが、ご神意にかなっているのだ。





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by 2nike | 2015-10-22 17:19 | 大天運

真髄とはなにか。無形のものであり、没我の境地の一瞬一瞬に真髄はある。

<ワールドメイトのリーダー(教祖)、深見東州(半田晴久、戸渡阿見)氏は、万能の活動と、ギャグ爆発の性質から、「出口王仁三郎2世」や「宗教界のギャグ王」とも呼ばれる>


「大天運」は、「神界からの神通力」「神霊界」「強運」「恋の守護霊」「大金運」のあとに出され、神霊界の本質的なところから説き起こした宗教的色彩の濃い著書だ。
以下は深見東州氏の著書「大天運」より。

まず、「真髄とは無形のものであり、体得するものであり、知性ではないところで実感するものである」ということを悟る必要がある。

世界中のすべての宗教団体と師を巡ってみても、真髄に巡り会えるわけがない。また、矛盾のまったくない組織や師、書物があるわけはないのである。形あるものはすべて、無形の真髄を自分自身が体得し、実感するための媒介にしかすぎないのだ。

だから、どこからでも吸収し、何からでも体得できる自分を確立することが大切なのである。

ここでもうひとつ、よく犯す真髄についての誤解をなくすために語っておきたい。というのも、真髄とは到達するものだ、と思い込んでいる人が多いからである。そうではない。真髄とは到達するものではないのだ。

結論からいえば、真髄とはこの世に生まれる前から自己に内在しているものであり、ただ、それを自覚できていないだけなのだ。

すなわち真髄とは、御魂の世界に没入したときの感触ともいえる。

真髄とは、到達して得られるものでは決してないのである。それゆえ、本にたとえるならば、クライマックスに到達するまで読み続けていく連載小説や連載マンガではなく、「毎回感動の読み切り、次回ご期待!」でなければならないのだ。

マンガは毎回感動して、味わって楽しめばそれでよいものだ。神様の道も本当はそれでよいのである。そして、少しずつでも進歩が伴えば、さらに善しなのだ。

とにかく、真髄とは到達するものではなく、没我の境地の一瞬一瞬にあって、感動しながら楽しみ、学び、向上し続けている自分自身に生きているのだということを理解していただきたい。





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by 2nike | 2015-10-21 19:23 | 大天運