「ハナがあるね」のルーツは「風姿花伝」。日本型ルネサンスを受け継ぐ半田晴久氏の舞台芸術論

半田晴久氏が日本の芸術家として、クラシックや音楽をどうとらえているのかについて、世界芸術文化振興会(IFAC)の「音楽オペラエッセイ」<(6)半田会長にとって、クラシックとは? また音楽とは?>に詳しく書かれている。

この「音楽オペラエッセイ」を読めば、芸術家として、芸道をやり続けるプロセスで、魂を磨き続け、それを作品にあらわす阿弥達の生き方を継承し、演技の花で、観客を感動させることの重要性が分かる。半田晴久会長は このことに全身全霊を傾けて取り組んでいるからこそ、毎回毎回コンサートが大成功し、共演者に恵まれ、しかも驚異的なペースでコンサートを開催できるのだろう。

また、どのような演技も、観客が感動しなければ意味のない事であり、究極のものは、年を取って外見の花がなくなり、その代わり演技の花で、観客を感動させるのが「花の中の花」である、と「風姿花伝」を解説してくださっている。
レベルの高い音楽性と、ギャグ満載トークの炸裂するコンサートを観ていると、半田晴久会長の舞台芸術論の根幹には、観客を感動させるための愛と真心が充満しているのだろうと感じてしまう。


(6)半田会長にとって、クラシックとは? また音楽とは?

まず歌手としては、音楽の芸術性や発声、表現力、音楽理論の理解を深め、高めるための教科書です。この訓練のおかげで、どんなポップス、ジャズ、ロック、演歌、アニソンでも歌えるのです。しかも、高いレベルで。

しかし、芸術家としては、もっと別な捉え方をします。そもそも、クラシックや音楽とは、観客が喜び、観客が感動し、観客を幸せにするものです。
清華大学での、博士論文にも書いたことですが、「芸術のための芸術」、いわゆる今日の芸術論の主流は、19世紀のフランスから生まれたものです。
18世紀のモーツァルトぐらいまでは、パトロンがいて、お金をもらい、注文を受けて作ったものです。だから、パトロンの貴族が、喜んでくれたらそれで良かったのです。
16世紀のルネサンスの巨匠たちも、パトロンが居て、パトロンに喜ばれたらそれで良かったのです。そこに、普遍的な価値があったからこそ、現在まで残っているのです。
そういう、貴族お抱えの絵師や音楽師の時代が過ぎ、19世紀は、その反動でプロレタリア芸術が生まれました。しかし、自分達は貴族お抱えでもなく、プロレタリア芸術でもないと信じた人々が、「芸術のための芸術」という、新たな価値観を生んだのです。これが、今日まで続く、芸術論の主流になっています。
しかし、このクラシックを理解する美学は、普遍的、絶対的なものではありません。19世紀のフランス人が、勝手につくった価値観です。日本には、もっと高いレベルの、クラシックや音楽、芸術に対する価値観があるのです。

15~16世紀の日本では、観阿弥、世阿弥、本阿弥光悦、能阿弥など、「阿弥」が活躍しました。「阿弥」は時宗の影響を受け、「南無阿弥陀仏」という言葉からきたものです。すなわち、「南無」は俗人、「陀仏」は出家を意味し、その中間が「阿弥」なのです。
阿弥達は、俗人でも出家でもない、自分達は「阿弥」だという、自覚と誇りをもちました。つまり、芸道をやり続けるプロセスで、魂を磨き続け、それを作品にあらわすのが、阿弥達の生き方だったのです。こうして、一生を芸道に捧げたのです。
これが、日本型のルネサンスです。

これは、今日でも、日本の芸術家に受け次がれる精神です。また、世阿弥は、世界最古の演劇論である、「風姿花伝」を書きました。ここで、最も尊重されるのが、「花」という概念です。「花」とは、観客の感動であり、観客を感動させる神なるもの、輝かしい花のような美のことです。今日よく、「あの女優には華があるね」とか、「あの歌手には華があり、オーラがあるね」などと言います。この「華」とは、「華やか」という言葉から来たと思うでしょうが、実際は、「風姿花伝」の「花」から来てる概念です。能から歌舞伎が生まれ、歌舞伎から日舞や新劇、新国劇が生まれたのです。「風姿花伝」は、六百年経った今日でも、能楽師の教科書です。六百年間愛される、最古最大最新の演劇論「風姿花伝」が、「ハナがあるね」のルーツである事は、疑いようがありません。それ故、本当は、「花があるね」と書くべきなのです。

ところで、この花伝書を見れば、どのような演技も、観客が感動しなければ意味のない事が解ります。そして、究極のものは、年を取って外見の花がなくなり、その代わり演技の花で、観客を感動させるのが「花の中の花」なのです。ここに、最高の価値を見出すのです。

19世紀のフランスより、15世紀の日本の方が、より深い芸術論、より深淵で、普遍的な舞台芸術論を生んだのです。そう確信します。
能楽師であり、京劇俳優でもある私にとって、西洋音楽、クラシック音楽、オペラやバレエなどは、拳拳服膺(けんけんふくよう)して仰ぐ芸術ではありません。私は、音大の大学院も出ましたが、西洋音楽など尊敬してません。愛してるだけです。西洋人も尊敬してません。優れた人、いい人は敬愛しますが、日本文化と日本人に自信と誇りを持ちます。だから、ヴェルディやプッチーニ、モーツァルトのオペラも、グチャグチャにして、日本流に演出して観客を楽しませます。

それが、あらゆる舞台芸術の原点であり、そうする日本人を、西洋人が尊敬するのです。蜷川幸雄が、世界で評価される理由も、同じでしょう。
これが、芸術家としての、私にとってのクラシックや音楽です。


by 2nike | 2015-07-31 23:03 | 半田晴久
<< 深見東州氏やワールドメイトの、... 「深見東州の武道館単独コンサー... >>